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「大丈夫?」と聞かれたときに 大丈夫じゃない場合は何と答えるのが正解なのだろう



優しい人間でいたい、せめて。

強い言葉を使っている時、自分は弱っていると感じる。

「別に否定しているわけではないけど…」から始まる否定を何度自分の耳に流しただろう。

手の届かないところで相手の批判をして、それで勝った気になってわたしは勝手に負けにされて。それがここでの面白さでもあるし、批判している側は大してわたしのことなんて深く考えていないのだろう。ちょっと頑張ったら見えるところで人のことを蔑むのって気持ちいいんだよね。「別に君のことじゃないよ」と笑う貴方の顔に火をつけて燃やしてやりたい。ただ、わたしもこうして貴方がちょっと頑張れば見える位置で今日もnoteを書いている。ベランダで浴びる風が今日は一層気持ちよく感じた。



「被害妄想」と言ったら何だか急に質の悪い話に聞こえてくる。

わたしは社会人になってから、自分のことを下げて心を保つ癖があることに気づく。学生時代は、きっと恵まれた環境で育ってきたのだと思う。両親の仲が悪いくらいで、勉強をする時間はあったし、友達も少ない方ではなかった。運動も人並みくらいは出来た覚えがある。

周りよりも早くアルバイトを始めて、家にお金を入れて何とか生活をしていた。けれど、次の日の食事は約束されていたし、最悪ひとりぼっちになっても助けてくれる人はいるかなと心のどこかで思っていた。

社会人となり、大人となり、ひとりで生きているわけではないけれどひとりでわたしは今生きている。部屋に帰ればひとり。スマホやパソコンの画面だけがわたしの生きている理由だった。

そして、わたしは今もきっと恵まれた環境で生きている。

低収入ではあるけれど、欲のない生活が染み込んできた。"ただただ生きているだけ"という行為がもしかしたらわたしは少し得意なのかもしれない。食べるものもあり、電気もつく水道も出る部屋に住んでいる。煙草を買う余裕だってあるし、たまにはちょっと高い珈琲を飲んだりも出来る。お酒はちょっと飲んだだけで満足出来るし、これだけわたしは文章を書く時間も与えられている。

毎日が苦しみながらもきっと楽しい。

「わたしなんて…」から始まる自分の不幸話に見せかけた自慢話をわたしはここで繰り広げてしまっている。



ただの非日常


今日、わたしは休日だった。

駅周辺に向かい、わたしは日用品の買い物をしていた。

すると突然わたしは心臓の動悸が激しくなり、立てなくなっていた。

社会人になってからわたしは『パニック障害』と共にかれこれ数年生きている。

もうこうなるのも何十回、何百回と経験してきた。毎回苦しみの段階は違った。けれど今日は少し軽い方だった。

人で溢れる駅前を、季節外れの暑さも相まって普通では考えられないほどの汗を流し、わたしは這いつくばりながら何とか離れようとした。

自分でも、動悸が時間が経てば収まることはもうわかっていた。けれど毎回死を思うほど息が出来なくなり、手足は破裂しそうなほど痺れてくる。

間違いなくわたしはその時、大丈夫ではなくなっていた。

明らかに俯くわたしに、顔は見れなかったけれど30代くらいのサラリーマンと、40代くらいの女性に声をかけられた。

「大丈夫ですか?」

そう聞かれた。話すことも出来ないわたしは必死になってその場を離れた。

高架線の下の人の目につかないところにわたしは入り込んで息を潜める。


胸の痛みは止まらない。

誰の目にもつかないところでわたしは必死にアスファルトの割れ目を一点に見つめながら、それが終わるのを小一時間待った。


ひとりでわたしは生きている気になっているが、間違いなくひとりで生きているわけではない。わたしの姿は当たり前だけれど、周りの人に見えていて。どういう気持ちだったかはわからないが、声をかけてくれる人がいることにわたしは"恵まれている"と感じた。


頭上からは電車の走る音がせわしなく鳴り響く。「もう大丈夫だよ」と何故か背中を押された気がしてわたしはまた立ち上がり、家に帰った。



自己満足の救済


もしわたしが大丈夫じゃなさそうな人を見かけたら、そっと近づいて背中を撫でる。もしわたしの手を跳ね除けられてしまったら、少しの間近くにいる。

大丈夫じゃない時って会話してる場合じゃないんだよね。でも何もわかってあげられないなんてそんなの淋しい。別に言葉だけでしか愛を伝えられないわけじゃないのと同じように、わたしは人に寄り添える人になりたい。

大丈夫じゃなさそうな人を素通りするのと、「大丈夫ですか?」と駆け寄っても何も出来なかった人が、全く同じなんてそんなの哀しい。助け方の正解はわからなくても行動出来る人間になりたい。何度も助けられているわたしだからこそ思う。

優しい人間でいたい、せめて。それは自分のことを自分で嫌いにならないためにしているだけなのかもしれない。それでも"素通り"に少なくとも愛はないでしょう。

「手の届くところにいてもらえる」

それだけできっと頑張れることもある。同じ弱い人間だとしても、手の届かないところで笑う人間よりも、手の届くところで微笑んでいたい。それは自己満足なのだろうか。それでもいい。

正解なんてきっとないからね。


書き続ける勇気になっています。