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エッセイなんて誰でも書けるじゃん



目覚ましもかけていないのに、休日も仕事に行くときと同じ時間に目が覚める。その瞬間がなんだかかなしい。もっと寝れたのになって思いながらすでにわたしの目は開ききっていた。なんとなくその日はベッドでごろごろしている気分でもなかったわたしは、そのままいつも通りキッチンの換気扇の下で煙草に火をつけた。

スマホをいじることくらいしかやることのないわたしは、いつも通りTwitterの通知欄を眺めていた。

そこにはわたしのTwitter相互ではない人からのダイレクトメッセージが届いていた。


はじめまして。いきなりDMしてすみません。いつもいちとせしをりさんのエッセイ読ませてもらってます。(中略) しをりさんの文章が好きなのでこれからも続けてください。こっそり私は読み続けますので。


わたしは正直あまりDMとかが届くタイプのアカウントではない。いいねはくるけどリプライは殆ど来ない、そんなタイプだ。昔、Twitterでたまたま仲良くなれた人はわたしのことを「ちょっと話しかけづらかったよ、最初は。」とそう言われた。

自分から話しかけるタイプでもないのに、話しかけられたいなんて気持ちは烏滸がましいけれど。それが淋しくもあった。

そんなわたしに絡んだこともない人からのメッセージがきたのだ。それはそれは嬉しかった。文中に"エッセイ"という言葉が入っているのがものすごく恥ずかしかった。いつもnoteに「#エッセイ」を付けている分際で言うのはあれだけれど。

わたしのnoteを更新したツイートは他のツイートに比べていいね数が少ない。だからこそいつも読んでくれている人は覚えているし、感想をもらえるわけではないけれど、「今日も読んでくれた。」という事実だけでわたしの口角は少し上がっていた。

140字以下のツイートを読むよりも、noteみたいな何千字もある文章は正直読もうと思うのにいくつか壁があるように感じる。

その壁をたまたま乗り越えてくれたとしても、わたしみたいな何者でもない人間の文章を読んでもらうのは物凄く難しい。それでもわたしのnoteに辿りついてくれた人には飴でも本当はあげたいくらいだ。

そうしてわたしは"エッセイ"というものがなんなのか今一度検索して調べてみた。でも調べた先で意味を読んでも、エッセイというものが何かよくわからなかった。




わたしのエッセイはつまらない


ただ眠いだけの国語の授業を受けてるみたいだ。

あの時の授業は眠かったし、ものすごく長く感じた。けどどこか終わってほしくないとも思っていた。外から吹いてくる風を感じたり、自分が漫画のキャラクターになる妄想をしたり、次の席替えでは、大好きなあの子の近くがいいなとか考えたり。そんな時間が好きだったからだ。



誰かの夜に読みたくなるような文章を書きたいなとも思う。それがどんなものなのかはわからないけれど。

つまらない文章だけど、読んでいると眠くなるけど、もうちょっと読みたいなって思われたい。ふらっと喫茶店に寄って珈琲を飲むように、わたしのところに来てほしい。そのためにはわたしは毎日営業していたい。毎日来てくれるわけじゃないけど、この曜日だけ毎週来てくれるお客さんとか、そんなのもいいな。今更言う必要もないけれど、わたしは文章を書くのが苦手だ。面白い文章も書けないし、ためになる記事も書けない。けど文章を書くのは嫌いではない、むしろちょっとだけ好きだ。

あの喫茶店あんまりお客さんきてないけど潰れないよね。いつからあるっけ。ちょっと行ってみよっかって。そんな存在になりたい。


わたしの文章を読んで「エッセイなんて誰でも書けるじゃん」って思ってほしい。そう思ってくれた人のエッセイを読んでみたい。

芸能人でもない人のエッセイなんて何が面白いんだよって。そんな記事も読んだことがある。でも、わかってるよ。面白くないことも。面白くなれないことも。それでもわたしは知らない誰かの生活をちょっとだけ覗きたいし覗かれたい。わたしの欲求はそれだけで満たされるから。無駄なことをするのって思いの外楽しい。河川敷に行ってひとりで寝そべったり、深夜にコンビニへ行って安いスイーツを買ったり。期待されていない文章でわたしは生きていけるよ。


書き続ける勇気になっています。