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思考の垂れ流し

夏から秋へと季節は移り変わり、朝晩は肌寒いくらいだ。
夕暮れが早くなることを「秋の日はつるべ落とし」と言うが、もはやつるべ落としが何かを説明しようとすると、まず井戸の説明から始めないといけない。
夕暮れが早くなる事を現代に置き換えるとどうなるのかな、などとぼんやり考えながら子供を迎えに行く。

こども園に子供を迎えに行くにも色々と気を使う。
例えば会社帰りからすぐ迎えに行くとする。
一旦着替えてから、と思うけれど着替えていくと、お休みなのに子供を預けたと思われるのでは?とか、スーツに社章をつけたままだと「あらあの人はあの会社にお勤めなのね」と思われるかと思うと、何となく気恥ずかしい。まあもう自意識過剰、なんていう年齢でもなし。結局は適当にやっている毎日。


普通に生活するだけで色々な事に配慮が必要な時代だ。多様性を主張するのであれば他人の多様性にも寛容になる必要があるけれど人間そう出来た人ばかりではなくて、所詮は自分の都合の良い様に解釈するに留まるのでまたそこで軋轢が生じる。

こうやって頭の中で色々考えてはいるけど、いざ誰かと議論をする局面になった時に主張できるか、というとこれが全く主張出来ない。よく日本人はディスカッションが下手だ、と言われるけど文化的に対立を避ける事が美徳とされてきたことが影響しているのではないかと思う。まあ日本人は、などと主語を大きくしてしまうのは早計で、これは自分のパーソナリティに問題があるだけだとは自覚している。

ロジカルシンキングだなんだと、それなりに勉強したりそうあろうと努力してはみている。メールやTEAMSのような情報共有の場において文字での議論はまだマシなのだがいざフェイストゥーフェイスでの議論になると圧倒されてしまう。自分の意見に絶対的な自信があればまた違うのだろうか。折しもロジハラなんて言葉が取り沙汰されて色々考えてしまう。

揺るぎない自分、揺るぎない自信。そういうものが有れば生きやすいのだろうか?私はと言うと、世の中には絶対的に正しい事は無くて、正しさなんてものは相対的に自分の中にしかないであろう、との信条を持ってしまっている。結局のところその拠って立つ正しさを思い込む事が出来るかどうかだと思う。

それでいて仕事の上ではそれで良くても、家庭の中、家族の中でもそれで良い訳ではない。


アルバート・エリスの著作「現実は厳しい。でも幸せになることはできる」を読んで、1番腹落ちしたのは感情と結果を論理的に切り離す事が出来るという事だ。代表的な例で言えばこうだ。

仕事の上で上手く付き合えない上司が居たとする。
仕事で失敗をし、その上司から叱責を受けたとしよう。
人間は誰しも大なり小なり自滅的・破滅的な一面を持っている。その傾向が強いと「叱責=破滅」になってしまう。 

ここで大切なのは起こった事象のロジカルな繋がりだ。
①「仕事の失敗」→②「叱責を受ける」→③「自責の念」
①は客観的な事実でありそれ以上でもそれ以下でもない。
その事実に起因して②が起こる訳だが、ここでも①という事実がある訳だから①→②の因果関係は論理的に正しい。但し、ここから②→③に関しては本人の受け取り方の違いだ。

「叱責されてしまった。もう自分はおしまいで、折り合いの悪い上司と今後何もかも上手くいかない」と思い込んでしまう。
これは①の事実とそれに起因して②が起こる事と論理的に繋がらない。

ただ単に客観的な原因に基づいた結果であり、「今回の失敗はここがダメだったのだから次回はここを気をつけよう」と思うだけで良いのだが、つい①から③まで飛躍してしまう。そこで①→③への論理的な飛躍を自分中で徹底的に反証する事が大切なのだという事。

これがなかなかに難しい。とくに自責傾向の強い人にとっては。繰り返し繰り返し自分に言い聞かせる必要があるな、と感じる。


noteやpixivで何かを表現してみたい、と思い色々書いてみてはいるが、どうにも取り留めが無い。日頃ロジカルであろうと訓練しているけど、書いていくと思考がとっ散らかっていることに気づく。だけど以前も書いたけれどそれは決して悪いことでは無くて、私を構成する個性の一つでもあるとは思うので、取り敢えずは思うがままに書いてみようと思う。思考の垂れ流しで。

めざすゴールは創作だがどうなることやら。では、また。

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