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ニラレバとその他諸々

日本ではお馴染みの中華料理だが、私という一個人が中国で食べたことのない「ニラレバ」をやってみました。

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豚レバーとニラとを一緒に料理すると言ったら、「(そんなの)美味しくないのだ」と祖母に言われた。実際地元の老人の言う「美味しくないのだ」(不好吃kəʔ)は必ずしも自分の直接経験に基づいた判断ではないのが分かってきたので、これは美味しく作って黙らせるほかないと思った。

※食べたことないのに「美味しくない(のだ)」と言うのが、「美味しいはずがない」と解すべきだと考える。実際「美味しいはずがない」というような表現が欠如している。

もやしがなかったのと、ニラとレバーの組み合わせは美味しくないと言った祖母がタケノコを入れる(ものだ/べきだ)と言ったのもあり、薄くスライスしたタケノコも入れてみた。出来上がりを前にして「kɛ只菜烧得好kəʔ」(この料理は良くできた)と祖母に言ってもらえた。

ニラは家の周りの開けた土地で栽培したものである。年初の低温で一時期葉が凍死し不作になったが、暖かくなった最近はまた元気な成長ぶりを見せている。火が通り過ぎないようニラを最後に入れることにした。それでも調味料を入れる前に入れたので、かなり崩れた。この料理を作ったのがはじめてで、調味料を迷う時間もあってのことだが、調味料の後に入れても良いかもしれない。ましてや今回使ったのは柔らかい新芽だ。

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ニラを包丁で刈り取った時に「割韭菜」(ニラを刈り取る)というネット上の流行語を思い浮かべた。『人民中国』の日本語サイトではこの語を以下のように説明している。またネットでは自分のことをニラだと自虐的に言っている層がかなり広い。
・・・少数の株主により個人投資家が投資を「刈り取られ」、たとえ損切りしても、またすぐ新たな初心者が投資に参入して来ること。ちょうどニラのように、一度収穫してもすぐ二番手が成長してくることから名付けられた。今では他の分野でも広く応用されている。・・・

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教育関係の話でも一昔前に90年以降生まれの子供は「温室内の花」と呼ばれていたり、農業経験のメタファーは現代中国の都市生活にも散見される。

豚レバーは祖父が市場で購入した丸ごと一対のものだった。今回の昼食では片方だけを調理した。血抜きのために水に浸かっておいた豚レバーはぷるんとしていた。弾力が凄かったためか、片手は素手で添え、もう片手は包丁を入れると、その反作用によって刺激を与えられ、お肉を切っているのと全く違った触感で、まるで命のあるものを切っているような感じだった。ふと/ȵioʔsu/という言葉を思い浮かべて、それにまつわる記憶とイメージが膨らむ一方で包丁を振るい続けた。

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/ȵioʔsu/ニョスーという言葉について私は十分わかっているとは言えない。記憶の断片をたどると、この言葉は、例えば蛙やトカゲなど、体が粘膜で覆われているものや、皮膚の柔らかい動物などが苦手の人がそれらを見たとき、又は殺すために鶏の首に包丁を入れ血が流れているのを殺生に慣れていない人が見たときに、体(肉)に力が抜けているような感覚を表すものだ。しばしば顔をしかめて/ȵioʔsusaʔzəʔ/(もうとてもニョスーだ)と言う。

語義からして/ȵioʔsusaʔ/の漢字を推定するのもそう難しくない。/ȵioʔ/は【肉】で、/su/は【酥】(【酥】に関してはある程度漢字のリテラシーがある上で意識的に推測の作業を行わないとこの漢字が出てこない;注①)。/su/は方言では単音節語としても用いられ、柔く煮込んだ肉と根茎類などの野菜の状態(主にそのほろほろさと柔らかい食感)を意味する。/su/が単音節語としても用いられているのと、肉や野菜がほろほろしていることが体に力が抜けている感覚にも通じるので、二音節語の/ȵioʔsu/は認識において/ȵioʔ/と/su/の二部分に分割しやすい(注②)。また使用頻度に関して、単音節語の/su/の方がずっと高いので、私は/su/のイメージをもって、/ȵioʔsu/を理解していた(その逆ではない)。

この語が真っ先に喚起したのは小学校時代の記憶の断片だった。私が何気なくミシン台に置いたプラスティック製の恐竜のオモチャに脅かされた母は続けて/ȵioʔsusaʔzəʔ/と言う場面だった。当時の私は/ȵioʔsu/という言葉を理解していなかった。全き他者として現前したこの言葉は私に名状しがたい奇妙な感覚をもたらした。母の表情と身振りを自分なりに理解することはできるが、私が母のように日頃弄んでいるおもちゃを怖がることができない。恐竜のオモチャを不意に目にしたことが母にネガティブな感情を引き起こしたことはわかるが、母のように/ȵioʔsu/を経験することはできなかった。私はその後母に/ȵioʔsu/の意味を聞いたと思うが、会話の詳細は既に忘れ去られていった。この度豚レバーを切ったときに、私は母のように反射的に/ȵioʔsusaʔzəʔ/と言うことができなかったが、生のレバーを切る感覚を/ȵioʔsu/という他者と、他者の/ȵioʔsu/に結び付けていた。痛みと憐れみと、命のもろさと命を頂くことの倫理上のジレンマと、それらにまつわる、母の持っているのと決して同様になることのできないイメージの総体が動員されていた。結局のところ、/ȵioʔsu/を再帰的にしか発話することのできない私が/ȵioʔsu/の主体=隷属なのかどうかは疑わしいが、/ȵioʔsu/という他者を懐胎し、他者の/ȵioʔsu/に共鳴する私は部外者ではないのは確かなのである。

注:
⑴ 形容詞としての酥は現代中国語(共通語)の辞書において⑴(食物が)さくさくしている(crisp)とされ、この意味においては例えばクッキーやビスケットの食感として、主に「酥脆」という二音節語が用いられる印象である。⑵(体の力が抜けて)ぐんにゃりしている,ぐんなりしていると説明している(日本語の説明はweblioのネット辞書を参照している)。恥ずかしながら、共通語における⑵の用法は私が知らなかったのである。/ȵioʔsu/という語における/su/にはこの意味があるにしても、故郷の方言において単音節語としての/su /は私の知る限り、(体の力が抜けて)ぐんにゃりしている,ぐんなりしているというような意味では使われていない。またweblioの中日辞書では、(食物が)さくさくしているの他、同じ項目に(食物が)柔らかくてもろい、ぼろぼろしている、ふっくらしているとも書かれている(ぼろぼろがほろほろの誤記ではないかと思うが)。「(食物が)柔らかくてもろい、ほろほろしている」というのが私の故郷の方言語彙としての/su /に当てはまるが、共通語における酥sūは中国語で検索したところでそのような意味が出てこなかった。私が大学時代に異なる方言地域の友人相手に、共通語で「肉烧得很sū(肉がとてもsūだ)」と言ったのが通じなくて、相手に説明したしまいにこれは方言語彙だと認識した。北方方言やその他の地域に【酥】が肉や野菜が柔らかくてもろい、ほろほろしているという意味を持っているかどうかは疑わしい。

⑵ 地元の方言には「連続変調」という現象が発達しており、簡単に言うと音節がくっつくとアクセントが変わってしまうから、単音節語とそれによって構成された多音節語との間に飛躍がある。例えば「牛肉」という2音節語のアクセントは「牛」と「肉」のそれぞれ単音節語であるときのアクセントの単純な組み合わせではない。「牛肉麺」になると、音節ごとのアクセントは更に変わってしまう。実際当該方言のアクセントは語単位で考えるべきである。更に「喫牛肉麺」というフレーズになると、「喫」+「牛肉麺」と「喫牛肉麺」の2パターンのアクセントがある。即ち「喫」と「牛肉麺」を二つの意味単位として捉えるか、それとも「喫牛肉麺」を一つの意味単位として捉えるかによってアクセントが変わる。

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