Googleのストリートビューって切ない
スマホのメモ帳に「Googleのストリートビューって切ない」というメモを見つけた。それ以外のことは何も書いてなくて、その1文だけ。
最初は、なんのこっちゃと思った。でもよくよく考えてみると、一時期ストリートビューで懐かしの場所を調べて、勝手にノスタルジックな気持ちに浸ってた自分がいたことを思い出した。
ちなみに『花束みたいな恋をした』という映画にもGoogleのストリートビューが登場するのだけど、その作品に影響を受けたわけではないし、自分が近所のストリートビューに映り込むような奇跡は今のところ起きてない。
それにしても、それを書いたときのわたしはどんな場所を調べて、見て、「Googleのストリートビューって切ない」なんて思ったんだろうか。
長らく離れてしまった実家かもしれないし、しばらく滞在したデンマークの学校や、カナダのホームステイ先の周辺だったかもしれない。それか、高校や大学の近くかも。
切ないとはちょっと違うかもしれないけれど、たしかに、どこも懐かしさのようなものがある。かつては、生活の中心だった場所。毎日時間を過ごして、道路を踏みしめるように歩いた場所。そこにあって当たり前、そこにいて当たり前の存在だったからこそ、いまはずいぶんと遠く感じる。物理的な距離だけでなく、精神的な距離も。
そういえば、過去にGoogleマップのストーリートビューで実家を見て、外装が変わっていたことを知った経験がある。自分のなかで変わらない姿であり続ける、かつての居場所。その場所にも自分が歳をとったのと同じ年月が流れていること、もう昔と同じではないのだということを、ストーリートビューは教えてくれる。そう思うとたしかに切ない。
去年、星野源さんがゲスト出演してた『あちこちオードリー』の回で、若林さんと星野源さんが、昔住んでた場所をGoogleマップで見る話をしていたのが印象的だった。「感情って道とか場所に焼きついてますよね」という話。それを聞いて、まさにと思った。みんなそれぞれ、いつかの感情が焼きついたままの場所や道があるのだろう。
わたしはいま、東京のアパートに住んでいる。この場所に住んで3〜4年は経つから、歩き慣れた道には、もうすっかり感情が焼きついている。radikoで大好きなラジオ番組を聴きながら歩いた道、電話で自分の思いを聴いてもらいながら歩いた道、誰かと公園まで散歩した道。
もしいつか引っ越したら、わたしはきっとGoogleのストリートビューでこの場所を見る。そして、例のごとく切ない気持ちに浸るのだ。
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