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誰かをわかろうとすること


実際に起きた事件を取り入れた映画を観たらいろいろ思うことがあって、ネットで事件と事件を起こした人の供述とか調べて、さらには関連する本を読むまでしてしまった。それでもあまり腑に落ちなくて、人間ってなんだろうとか考える。

ときに誰かのことを知ってる、わかってる気になってしまうけれど、自分の「わかってる」なんてほんの一部で、思い違いでしかないこともあるんだろうな。

子どもの頃は、たびたび母や父と口喧嘩をしながら「人間、話せばわかりあえる」と信じ切っていた。口喧嘩のゴールは、わかってもらうこと、つまりは自分の主張を理解して納得してもらうこと。でもそれは叶わずで、子ども心に「なんでわかってもらえないんだろう?」と思っていた。だから、ずっとしんどかった。

たとえ家族でも母親も父親も自分とは別の人間で、わかりあえないんだとハッとしたのは、大学生くらいの頃。本を読んだり人と話したりするなかで気づいて、視野がひらけた感覚があった。

わかりあえると思ってたから、つらかったんだ。家族だから、恋人だから、親友だからわかりあえるなんていうのは理想話だった。「わかりあえない」を前提にするだけで、ずいぶんと気持ちがラクになった。家族との口喧嘩も減っていった。同時にゆっくりと、「わかろうとすること」「わからせようとすること」が、ときにある種の暴力のように誰かの心を傷つけるのだということを知覚した。

いまは「話せばわかりあえる」みたいなことは思わないけれど、犯罪関連のノンフィクションを読んでいたら、少なくともわかろうとすることは大事だと感じた。みんながみんなそうである必要はないのかもしれないけど、自分はそうありたい。わかろうとすることで、救われる人や出来事があると思った。

ただ、「わかろうとする」は、なかなかに難しい。物事の見え方も感じ方も人それぞれ違っているし、判断材料も違う。そして「自分だったら」とか「これまで出会ってきた多くの人はこうだったから」で相手をみてしまうことが多い気がする。でも、できるだけ人をみるようにできたらなと思う。同情できるか共感できるとかは別として、わかろうとすること。色眼鏡を外して本人をみようとすること。それができたらないいなあ、と。でもきっと「わかった」って思った瞬間に、いろんなものを見落としてしまうんだろうな。

わたし自身、わかってもらいたいけど、わかられたくないとも思うし、やっぱり「人間ってなんなんだ」の気持ち。人間ってむずかしい。

ひとりでぐるぐる考えて、いろいろ手につかなかった日だったなあ。笑えるもしくは心温まるコンテンツでも観て今日も生きよう。


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