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愛の注ぎ方について

ジョッキに残った飲みかけのお酒を人差し指と親指で測るみたいにして、愛の注ぎ方について話した。ちょっと酔っていたわたしは、お酒とジョッキの杯数を人付き合いに見立てて、世の中にはいろんな愛の注ぎ方があるんじゃないか、なんて言い出したのだった。

ジョッキ1/4程度の量を何十、何百杯と際限なく注ぐ人。ジョッキいっぱいの量を、ほんの数杯分だけ注ぐ人。7割ほどの量を10杯ほど注ぐ人。

愛の注ぎ方、言うなれば人付き合いのあり方は人それぞれ違うものだ。わたしはどちらかというと、量は気持ち多めにしても、少ない人数にしか注げないタイプ。いろんな注ぎ方があっていいはずなのに、その調整がうまくいかなくて、極端に多いか少ないかになってしまう。

それは相手を好きじゃないというよりは、相手にへんに遠慮してしまうのが理由であることが多い。「もし向こうに好かれてなかったら……」と考えて、傷つかないために最初から予防線を張っておくという。

そもそも「少ない人数にしか注げない」なんて言ってる時点で、自分が持てる愛の総量って相当少ないのでは?とも思えてきた。

自分が持てる愛の総量については、人に限らず物事に対しても通じるものがあるように思う。

まず、わたしには“推し”がいない。アーティストでもキャラクターでも歴史上の人物でも作品でも、熱烈な愛を無限のごとく注ぎ続ける対象がいないことを、寂しく思うこともある。

それから、複数の趣味があるものの、同時並行でハマることができない。映画ばかり観て過ごす時期もあれば、ひたすら本を読んでる時期、ラジオを聴いている時期、音楽を聴くことに没頭している時期、お笑い番組ばかり観てる時期と、いろんな趣味をループして生きている。他にも少し前まではプロレス愛が爆発してたけど、最近は落ち着いてきた。

最初のたとえでいえば、渾身の1杯だけに愛を注ぎ続けることはできないし、かといって杯数にも限度があって、何杯もというわけにもいかないのだ。

きっと自分が持てる愛の総量はそんなに多くなくて、かといって同時に少しずつ注ぐこともできなくて、結果、いまのわたしがいる。中途半端でなんだかなあ。でも、ときにひとつのジョッキにいっぱいに注ぎ入れて、次はまた別のジョッキに注ぎ入れてというのは、適度にやってるとも言える、かも。





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