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画面越し、原稿越しにも伝わるおもしろさ

数日前の夜、映画『愛なのに』の感想を話すというTwitterのスペースが開かれていた。そこに今泉力哉監督が参加していたものだから、思わず聞き入ってしまった。

スペースでは、今泉監督が映画を撮るときに意識していること、大事にしていることについて聞けておもしろかった。そしてどんな質問に対しても自分のスタンスや思い、考えをきちんと言語化していく今泉監督の声を聴きながら、映画をつくるひとはそこまで考え抜いているのだと改めて思った。言語化できるということは、自分をわかっているということ。自分のつくりたいものがハッキリ明確になっているからこそ、誰かに刺さる、誰かの心を動かせる作品をつくれるんじゃないか、なんてことを思った。

今泉監督はそのスペースで、昨年公開した映画『街の上で』の話もしていた。この作品の終盤には、偶然が重なって登場人物達が出くわして集まってくるという、思わず笑ってしまうシーンがある。実際、わたしが映画館で『街の上で』を観たときにも、同じスクリーンで観ている人たちの笑い声が響いていた。登場人物たちは本気で真剣。でも、それを客観的に見るとおかしくて笑ってしまう。わたしも大好きなシーンだ。

こういった場面では、役者さんにはおもしろいシーンだと思わずに演じてもらっているのだそう。おもしろいシーンをやるのだと自覚して演じたとたん、つまらないものになってしまうのだという。続けて今泉監督は、自分が目の前で観ておもしろいと思うものを「スクリーン越し」でも伝わるように考えなきゃいけないという話をされていた。

これは、わたしの仕事にも通じるものがあるぞと思った。インタビューして原稿を書いて、それを読んでもらう。このとき、取材相手から話を聞いた自分と、原稿を通してそれを読む読者には大きな隔たりがある。

どんなに自分が「おもしろい」と思ったインタビューでも、それが読者にそのまま届くわけじゃない。自分が感じとったおもしろさを読者に伝えるには、原稿というフィルターを通してでも伝わる強度が必要だ。インタビューしたときの「おもしろい」を原稿にうまく落とし込めなくて、今日はそんなことを思い出していた。インタビュー時に強度ある言葉を引き出すのも大事だし、その強度を表現できるだけの腕も必要だ。

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