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意味がないことの価値を思う

大学生の頃を思い返すと、私はほとんど意味のないことしかしてなくて、当時の意味のわからない写真がたくさん出てくる。

夏、田舎道を無意味に長距離歩いている学生達。なぜか登山用のザックに水風船をつけて得意げにしているわたし。思い思いの仮装やコスプレをして100キロ歩いたときの写真。酔っぱらって勝手に撮られた友達の自撮り。酔っぱらったときのわたし。寝てる友達の鼻にわさびつけようとしておふざけした夜の写真。

見返しながら、本当に、意味がないと思う。くだらないことばっかり。

サークルで長い距離を歩いたことなんかは、「精神的にタフになった」とか「つらいことも楽しめるドM気質が培われた」とかどうにか意味づけできるかもしれない。でも、なにかの目的のために歩いていた訳じゃないし、それなら他の方法だってよかったんだ。

それをしなければいけない理由なんてなくて、つまりは、やっぱり意味ないのだ。

それなのに、思い返すとすごく懐かしくて今でも笑えて、愛おしい気持ちになったりもする。
そしえ不思議と、そんな意味のないことほど覚えていたりするものだ。


意味がないとされること・意味がわからないと言われるものの価値は、ときに無いものにされてしまう。

でも見過ごされているだけで、お笑いとかよく考えたら意味のわからないことだらけで、むしろ、わからないからこそ笑えるわけで。それが面白いんだよな。

だから、意味がないこと・意味がわからないことと、価値がないことは全く別だ。意味がないイコール価値がないなんてことはない。


本当は大人だって、意味がないとされることをもっと沢山していいし、そういう価値を認めて笑って、楽しんでいいんじゃないかな。

そもそも最初から人生に意味なんてなくて、ないものを「ある」で色づけて形づくっていくと、だんだん疲れちゃう。

ときには、「意味がない」で気を抜いていいんだよ、思う。

意味がないことの価値をちゃんと認められるようになってから、わたしは随分と生きやすくなった。

「つらい、もう無理、生きられない」みたいなダメダメなときも、意味ないけど楽しいことを見たり聞いたりしたりして笑っていれば、案外どうにかなる。大丈夫。


今日の夜、偶然にも初めて会ったバーテンダーさんがこんなことを言っていた。

「若い人って、すぐに意味を求めたがるよね。『それにどんな意味があるんですか!?』とかさー。意味は、なくてもいんだよ。」

意味がないことの面白さを知っている余裕ある大人はかっこいい。わたしも、こういう風に歳をとりたいな。

そして同時に、意味を求めなくても大丈夫になったわたしは、もう若くないのかもしれない、と思った。

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