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表とか裏とか

芸能人・タレントさんの暴露系YouTuberが話題だと聞いて観てみたけれど、個人的におもしろさがよくわからず、再生して数分で閉じてしまった。話の内容もだけれど、飽きっぽいわたしにとって、ノー編集で話の要点がわかりにくいのが大きな障壁だった。

それからコメント欄には「芸能人の裏の顔が見られて面白いです!」みたいなことが書いてあった。その「裏の顔」という言葉が、なんとなく引っかかって飲み込めない。それで、「表の顔」「裏の顔」という表現を自分はあまり好まないのだと気づいた。

相手が誰かによって見せる自分は変わるし、その相手の受け取り方によっても違ってくる。それなら、何をもって表とか裏とかいうのだろう、なんて考えてしまう。


思い返せば、わたしの母は生前の父のことを「外面のいい人」だとよく言っていた。それはたしかに間違ってない。娘のわたしから見ても、家にいるときのぶっきらぼうな父と、外で人にヘラヘラ笑って気遣う父はまるで別人だった。お酒を飲んでいるときの父と、お酒が抜けているときの父も性格が違った。気が小さくて嫌われるのをいやがり、いい顔をしてでも優しくあろうとする人なのに、お酒を飲んでいた時期は意地悪で攻撃的だった。

でも、どれが本当の父なのか、わたしには断言できない。表の顔とか裏の顔とか言うのは簡単だけれど、どちらかを本当とすれば、どちらかは作り物の嘘になるわけで。自分が見てきた父のいろんな顔のどれが本当でどれが嘘なんて、決めつけることはできない。その理由は、父に申し訳ないのもあるし、自分がつらくなるのもあるし、もっと言えばあの人のことがわからないからでもある。

父は誰かにわかろうとされること、心の内側に踏み入れられることを嫌う人だった。わたしはいつまでもあの人のことがわからなくて、わかりたかった。そして今もわからずにいる。

だから映画「ドライブ・マイ・カー」を観たとき、わたしはなんだか救われた気持ちになった。亡くなった父のどれが嘘だとか本当だとかはなくて、どれも父だった。そういう人だったのだ。そう思っていいんだと肯定してもらえた。

かくいう自分にもいろんな一面があって、いろんな人に、いろんな顔を見せている。それを他者に「これが本当の顔」なんて決めつけられるのはごめんだ。人によって引き出される自分も違うのに、どれが表とか裏とか思われるのは、なんだかなあという気持ち。人にわかられたくないという意味では、父と似ている。


週刊誌とか暴露本とか暴露系YouTubeとかで語られる有名人の姿も、一部は本当なのかもしれない。でも、だからといって他で見せている顔が嘘になるわけじゃないと思うのだ。



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