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金子みすゞの人生を知る

金子みすゞの詩と出会ったのは、小学生のとき。教科書に載っていた『私と小鳥と鈴と』を読んで感銘を受けた。その詩を特別気に入ったわたしは、そらで朗読できるほどだった。親に詩集を買ってもらったほど、わたしは彼女の詩が大好きだった。

そんな出会いから十数年、大人になったわたしはいま、ずいぶん前に録画したままになっている『100分de名著』の「金子みすゞ詩集」の特集を観ている。

番組内で、詩の紹介とともに紐解かれる彼女の人生は、自分の知らないことばかりで驚いた。

そもそも、金子みすゞという名前はペンネームだ。本名は、金子テルさんというらしい。本名にはじまり、彼女のパーソナルな話は何ひとつ知らずに今日まで過ごしていた。


みすゞさんは1903年(明治36年)生まれ。大正時代を生きた詩人だ。20歳になる年に雑誌に童謡誌の投稿を始めて、同じ年に児童雑誌の『童話』に掲載。北原白秋が選者を務めていた『赤い鳥』にも詩が3作掲載されたらしく、創作にアグレシッブな印象を受ける。

その後、なんやかんやあって23歳になる年に、同じ書店で働く男性と結婚し、出産。でも、結婚生活は決していいものではなかったらしい。そして昭和5年、26歳で自死されていた。その理由はわからない。ただその背景として、結婚生活の破綻や病気を患っていたこと、『童話』の廃刊、『赤い鳥』の休刊と詩の発表媒体がなくなっていったことなどが紹介されていた。それに、ほかの詩人は詩集出しているなかで、自分だけは詩集の話が来なかったという悲しい話もあった。

それでも驚いたのは、みすゞさんは出産後も子育てをしながら、詩集のノートを書き、人に送っていたことだった。詩集のノートは、東京の出版社で働く弟と、かつて『童話』の投稿欄の選者を務めていて親交のあった西条八十(やそ)さんの2人分。自作の詩を3冊もの詩集にまとめ、手書きで清書したというのだから、その熱量は計り知れない。そんな風に、静かに情熱を注ぎ続ける人生をおくっていたことを初めて知った。


過去の人について知るとき、わたしはよくも悪くも年齢に目がいきやすい。徳川慶喜は31歳のときに大政奉還を成し遂げたのかとか、ガガーリンは27歳で宇宙に行ったんだ、とか。自分とそう変わらない年齢のひとが歴史的偉業を成し遂げていることを、どこか別世界のように、でもどこかしら自分と重ねて思うのだ。

それでいうと、みすゞさんはわたしの今の年齢よりも若くして亡くなっている。でも同時に、のびやかで美しい感性で表現した詩も残している。ちなみに番組テキストを参照する限り、『私と小鳥と鈴と』は『さみしい王女』に入っていることから、みすゞさんが21〜26歳ごろに作ったと思われる。みずみずしいなあ。


亡くなる前日、みすゞさんは下関の写真館で写真を撮っていたらしい。生きている間には出版されなかった詩集が、死後に出版されたときのために撮影したんじゃないか。そんな説があるという。それを知って、そうだったらいいなと小さく思った。もしそうだったなら、彼女の願いは叶ったことになる。そしてその詩は、いまもたくさんの人に愛されている。

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