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「自分の言葉」を探すことでわかることもある

以前、自分の語彙と表現の幅を広げたいという話を書いた。それに近いことで、少し前にも自分の思いを文章でうまく伝えられないもどかしい思いをした。

それは、いち編集として原稿をオファーするときのメールの文面を書いているときだった。仕事を依頼したい理由を伝えるのに、自分がその方の作品に触れていることや、そこで感じたいろいろを文章にしたいと思った。でも、何度も手が止まった。自分のなかに納得いく言葉が見つからなかった。

悩んだ末、完ぺきとまでは言えないけど、上辺じゃなく自分の言葉にできたかなと思えた文章を送った。それでもやっぱり、心から納得できる文章ではなかったように思う。

その理由は語彙力のなさもあるけれど、自分の「好き」の言語化が苦手なこともおおいに関係している気がした。思いが伝わるように言葉にするって、むずかしい。メールを送るのに、「あなたのこの作品が大好きなんです!」だけじゃ味気ないし伝わらない。


少し話が飛ぶのだけど、言葉にできることは、わかることでもあると思っている。その「わかる」とは、納得してわかる(腑に落ちる)こと、そして自分のものにすること。言ってることがわかる(理解できる)のとは別物だ。

だから、借り物の言葉じゃなく自分の言葉にできて初めて、本当にわかったと言えるんじゃないか。そう考えるようになった。

これまで、言葉にできる=わかるなんだなと思った瞬間が何度かあった。たとえば、スポーツ選手が自分自身や試合を振り返るインタビューを聞いたとき。精神的な病気から回復して、なんとか日々を乗り越えていこうとする人の言葉を聞いたとき。その言葉は全く借り物じゃなく自分の心の底から語られるもので、説得力があった。

逆に、本を読んで「なるほど」と思ったはずの話を人にうまく話せなかったときには「自分、ぜんぜんわかってなかったな」と思い知った。本にあった文章そのまま、借り物の言葉でしか語れない自分がいた。

「好き」をうまく言葉にできないときも同じで、どうしても借り物の薄っぺらい言葉になってしまうのを感じる。自分の言葉にできていないなら、どんなに自身の内面に潜ってもぴったりの言葉は見つからなくて、外から借りて引っ張ってくるしかないのだ。自分の言葉を見つけるのには時間がかかるし頭を抱えることもあるけど、それっぽい言葉で満足しないようにしたいな。


頭ではわかっていても、自分のものにできてないときは、自分の言葉にできない。それは経験や考える量が足りてないからかもしれないし、整理できてないからかもしれない。

それができてないとうまく書けないし話せないのに、自分の言葉で書こうとか話そうとして「わかった!」ってなることもあるという、ちょっとした矛盾。



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