職場の昼休みに書くあたり、終わってる
(希死念慮の描写があります。嫌な方はポチッと画面を閉じてturn aroundということでお願いします。)
死にたい。推しのライブがあろうともう効力がない。
もうなんでもどうでもいい。
おもちゃ箱を閉じるように、パタンと蓋を締めてしまいたい。
一旦、休憩をくれ。人生に。
休んでも、取り戻せなかった。
バラバラに割れたものは、元には戻らなかった。
もう、新しいものを作ろうだなんて思わない。
ガラスのかけらを掃除して、ありがとうございましたと礼をして、真っ白な部屋から去りたい。
そこに安息の地、というのがあるんじゃなかろうか。
あってほしい。
はやくきてくれ 虹の橋よ
なのに、自分の葬式を想像したら、泣いてくれそうな友人の顔が思い浮かぶようになった。
前までは、そんな人誰かいるのかな、と考えながら、誰の顔も浮かばなかった。
便りのないのは良い知らせ、と言うけれど、私は元気がなくなればなくなるほど、便りがなくなる。
相手を気遣うようなメッセージを送って、元気?なんて聞きつつも、私はもう、もうダメかもしれないと思っている。
そのたびに葬式、の一言が頭に浮かぶ。別に開かなくても良いのだけれど。
私がもしいなくなったら、その知らせは誰にいくんだろう。
誰が何を思ってくれるんだろう。そのうち誰も思い出さなくなるんだろう。
そう思っている自分がいる。
やりたかったことも会いたい人も、もう意味をなさなくて。きっと私のことは忘れているし、私以外の人が、私がやりたかったことを達成していくだろう。
でも、ふと冷静になる自分もいる。
死んでしまっては歌も歌えない、ピアノもウクレレも弾けない。そう思うと、それだけがなぜかすこそ残念なのである。
私をつなぎとめるのは音楽への執着くらいらしい。
もう誰にも話せなくても、聞いてくれるのは彼らだけだから。
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