〈短編小説〉悪魔の商売

序章

どんよりと曇った空の狭間から、時折陽光が降り注ぐ。こじんまりとした部屋から、その様子を眺める影があった。部屋の床には天鵞絨の絨毯が敷き詰められている。窓は一つ、すぐ傍に煉瓦造りの暖炉が誂えられている。それほど広くない部屋には、他にロココ調の机が一台と椅子が二脚置いてあるだけだった。
くあ、と小さな欠伸が部屋に響く。清閑な部屋で、その音は酷く目立った。同時に、床の上を翡翠色の硝子玉が転がる。それを、椅子に座り本を読んでいた男は一瞥した。短く声を発する。

「落ちましたよ」
「知ってるわ、欠伸をした拍子に落ちたの」

落ちくぼんだ眼窩の筋肉を僅かに痙攣させて、欠伸の主はうんざりとした口調になった。新調したは良いが具合が悪い、とぼやいて暖炉の上から飛び降りる。

「だから硝子玉はよした方が宜しいと申し上げたでしょう」

男は呆れたように口を開くが、視線は本から一ミリたりとも動かない。それには答えず、硝子玉の主は苦り切った声を出した。

「上手く取れない」
「それは当然でしょう」

思わず、といったように本を読んでいた男は嘆息と共に本を閉じた。しゃがみ込むと硝子玉を取り上げる。硝子玉を落とした主は満足気に微笑んだ。

「猫の肉球で硝子玉を拾えたら、その時点で私はNASAに連絡を取ります」
「それは止しなさい」

喉の奥で笑う黒猫に、男は呆れたように肩を竦める。それ以上何を言っても無駄だと分かっている様子だった。男は猫の落ちくぼんだ右目にビー玉を押し込む。入れる瞬間、体を硬直させた猫は、ゆっくりと瞬きすると、ほっとしたように息をついた。

「やっぱり目がないと落ち着かないわ」
「眼球がなくても見えるでしょうに」
「それはあれ、気分の問題」

器用に肩を竦める猫には視線を寄越さず、男は再び椅子に座って本を開く。
黒猫は美しい毛並みをうねらせて、再び暖炉に上った。猫の右目は硝子玉で、左目はない。

「習い性というものもあるんじゃない」
「それは少し意味が違うと思いますが」
「相変わらず、あなたは頑固ね」

猫は白々しくそっぽを向く。男はそんな猫の態度にも慣れているらしく、ただ肩をすくめた。沈黙が落ちる。やがて、男は小さな吐息を洩らした。

「――あなたの目を、早く取り戻したいとは思っています」

その口調は今までになく真摯だった。しかし今度は黒猫が反応しない。男がそっと暖炉の上を窺うと、黒猫はそっぽを向いたまま、素知らぬふりで目を閉じていた。

1.

工藤美織は苛立っていた。
滅多に苛立つ事がないと周囲に評価されているのは知っている。だが、その評価は美織が必死で作り上げたものだ。

「だから! 長引かせんなってんのよ、会議を! ぐだぐだぐだぐだうっさい!」

思わず小声で毒づくが、美織一人しかいない給湯室では同意も反論もない。美織も誰かと苛立ちを分かち合いたい訳ではなかった。溜まったフラストレーションを発散したかっただけだ。
ここ最近、会社の人事異動や事業編成、新製品の発売など多数のイベント事が重なっている。正直なところ、鬱憤を晴らすだけの時間がないのだ。
ただでさえ書類や会議の数が多いというのに、美織の上司である園島部長は話が長い。会議でも一々決定事項を作りたがり、結果として書類仕事が増える――悪循環だ。

「本当、どこかに消え去ればいいのに」

美織はぶつぶつと愚痴を零しながら、お茶を六人分注ぐ。営業と園島で六人だ。美織を筆頭とした事務員の分は含まれていない。

「だいたい自分のお茶ぐらい自分で注げっての。あんたずっと会社に居るじゃん。営業は分かるけど、なんで私があんたの分まで注がなきゃいけないわけ?」

外回りで汗をかいている営業にお茶を準備するのは百歩譲っても分かる。だが、事務員と同様、ずっと会社に居る園島の分まで必要だと言うのは理解できない。だが、美織は入社した時に「それが慣習だ」と教えられた。

「一回、私たちの分もお茶を淹れてみたら、『事務職には要らないだろう』って、嫌味ったらしいったらありゃしないんだから」

しかも、その台詞をしれっと吐いたのは園島部長だ。思い返せば腹が立つ。美織は鼻息荒く茶筒の蓋を閉めた。
美織は新卒で今の会社に就職し、六年が経とうとしている。事務員のほとんどは結婚や出産で退職し、残った二人は今産休中だ。恐らく彼女たちも、産休明けに退職するのだろう。実質、独身で結婚の予定もない美織が事務の最年長だ。
いつぞや雑誌で見た、「腹の立つ上司に、床を拭いた雑巾の絞り汁の入ったお茶を渡したOL」の話が脳裏を過る。

「……本気でやってやろうかしら」

怒り心頭に達した美織の顔はさながら般若だ。だが、美織は気が付いていない。いささか乱暴に湯呑を盆の上に置く。

「全く――先輩が動こうとしてんのに、何だって不肖の後輩は、自分がしますって言い出さないのかしらね」

最後の湯呑を置き、水の撥ねたシンクを拭く。手際よく布巾を元の位置に戻し、美織は盆を持つと、完璧な微笑で給湯室を後にした。

窓の明かりが夕日に代わり、美織は眩しさに顔を顰めた。美織の席は窓際で、夕方になるとコンピューター画面に太陽光が反射する。大抵はブラインドカーテンを下ろしているのだが、時々園島部長の気が向いたタイミングでブラインドカーテンを開けるよう指示されるのだ。眩しいと訴えたことはあるが、綺麗に無視された。
美織は園島の様子を窺う。彼は部署全体を見渡せるよう、一人だけ机を部屋の中央に向けて置いている。机の上にはノートパソコンが一台と書類が雑然と置かれているが、部長はどれにも手をつけていなかった。じっと手元の携帯電話の画面を見ている。会社で支給されているものではない。部長の私物だ。
美織はパソコン画面の右下表示されている時刻を見る。定時まであと十二分だ。はたと気が付けばいつの間にか眉間に皺が寄っていて、美織は深く息を吐いた。最近は年齢のせいか、皺がなかなか消えなくなっている。
そんな美織の様子には全く気が付いていない部長は、携帯電話を持って部屋の外に出る。扉が閉まったところで、美織は仕事を続けようとパソコンに視線を戻した。

「センパイ、工藤センパイ」

小声で呼ばれて、美織は振り向いた。意識して微笑を浮かべ、「どうしたの?」と首を傾げる。今年入社した佐藤アゲハが楽しげな表情を浮かべていた。

「どうしたの? 佐藤さん」

アゲハという名前は本名だ。美羽と書いてアゲハと読む。最近はやりのキラキラネームだ。最初、美織は「みわ」だと思っていた。佐藤が入社した当初、「さとうみわさん」と呼んだところ、本人はぷくっと頬を膨らませて不満を示した。「やだぁ、アゲハですぅ」と訂正され、予想だにしない名前と本人の態度に腰を抜かしそうになったものだ。
美織にとって「アゲハ」という名前は水商売の源氏名に等しいし、源氏名でないならば漫画やアニメのキャラクターの名前だ。
アゲハ本人も名前に相応しく、入社してまだ数ヵ月だというのに、金髪に近い茶髪をカールさせ、ピアスをしている。事務員は制服を着るから仕事中は誤魔化せていなくもないが、私服はおよそ通勤に相応しくない露出の激しさだ。
だが、不思議と園島や営業部の面々からは可愛がられているようで、度々食事に誘われているのを見かける。一方、佐藤の仕事の尻拭いをしている美織はあまり食事に誘われないし、雑談の相手にもされない。
アゲハは声を潜めて身を乗り出した。

「園島部長、誰に電話してるんですかねえ」

思わず美織は黙り込む。アゲハは美織の常識を悉く踏み倒していくのが常だが、今回も予想外の質問で咄嗟に言葉が出なかった。

「この前、あたし聞いちゃったんですよぉ。なんか、会社には来るなとか言っててえ。これって、あれですよねえ?」
「佐藤さん」

口さがない話に、美織は語気を強めて話を遮った。アゲハは目をぱちくりとさせる。マスカラをたっぷり塗った睫毛がばさりと音を立てそうだった。

「そういう話は、会社ですることじゃないわ」
「はあい」

素直に返事をすると、アゲハはペロリと舌を出し、肩を竦めて引き下がった。再びアゲハが自分の机に向かったのを一瞥して、美織はこっそりと溜息を吐く。
本当、お砂糖ちゃんなんだから。
「お砂糖ちゃん」とは、美織が勝手につけたアゲハの仇名だ。我ながら秀逸だと、美織は内心で自画自賛した。
園島が部屋に戻って着席した時、外の電柱に取り付けられた拡声器から童謡が流れる。定時だ。音楽と同時に、アゲハは鞄を持って立ち上がった。

「お先失礼しますぅ」
「はい、お疲れさん」

携帯電話を机の上に置いた園島が顔を上げる。「今日も一日ご苦労だったね」と労いの言葉を掛けた。アゲハはにっこりと笑った。

「有難うございまぁす」

アゲハは能天気に返事をして、「お疲れ様でしたあ」と部屋を出て行った。目の端でその様を眺めていた美織は、誰にも気付かれないよう、小さく息を吐く。

「五分前には帰る支度始めるくらいなら、その分私に押し付けてる仕事やりなさいよ」

アゲハは必要最低限の仕事しかしない。新入社員がアゲハしかおらず、美織とアゲハ以外の事務員は産休に入っている。必然的に、最近増えている書類仕事の負担は美織が一身に背負うことになった。
美織が定時に帰ると不機嫌になる園島も、アゲハが定時に帰るのは構わないらしい。それも美織にとっては腹立たしいことこの上ない。
美織は見積書の最終チェックをして、印刷ボタンをクリックした。美織の机と対角線上にある古いコピー機ががたがたと不穏な音を立て始める。
園島は自分のデスクに座ると、片肘を付いてノートパソコンの画面を茫然と眺めながらマウスを弄り始めた。仕事をしているようには見えない。美織は今日何度目になるか分からない溜息を堪えて、コピー機に見積書を取りに行った。途中でがたんと音がして、エラー音が鳴る。どうやら紙が詰まったらしい。
以前から、コピー機が古いので新しくしてくれと頼んでいるのだが、聞いて貰えた試しがない。エラー表示に従って何ヶ所か扉を開け確認すると、案の定紙が一枚、妙な形で挟まっていた。それを取りだして印刷を再開する。詰まった紙は真っ黒に汚れて使い物にならなくなっていたから、コピー機の隣にあるシュレッダーにかけた。
背後で扉の開く音がして、美織は振り向く。事務所に戻って来たのは、美織と同期入社の坂下信二だった。

「お疲れ様です」

美織は一番に声を掛けた。汗を拭きながら入って来た信二は、美織を見て少し照れたような笑みを見せる。

「工藤さんも、お疲れ様。園島部長、ただいま戻りました」
「ああ、坂下か。どうだった、今回の案件は。でかいのが一つ、見積もりまで出してただろう」
「ああ、上手くまとまりそうですよ」
「そうか。それなら良い。さすが営業部のホープだな」

園島は満足気に頷く。信二は鞄を置いて、「工藤さん」と美織を呼んだ。

「はい」

美織は園島や事務所に残っている他のメンバーに不自然さを悟られないよう、緊張を滲ませて振り返った。信二はほんの僅かに美織から視線を逸らしていた。

「そういえばさ、佐藤さんはもう帰ったの?」

美織は一瞬固まる。訝しげに眉根を寄せた。

「うん、定時に出たけど……」

思わず職場だということも忘れ、言葉遣いが崩れる。信二は気にした様子がなく、「そうか」とだけ答えた。美織はコピー機からまだ熱さの残る紙の束を取り、「どういうこと?」と重ねて尋ねた。

「佐藤さんと何か約束してたの?」
「いや、そういう訳じゃないんだけど」

信二は口ごもる。美織は更に問い詰めようと口を開いたが、園島の「あ、しまった」という声に我に返った。
目で信二を睨み付けると、園島の元にコピー用紙を持って行く。

「園島部長、こちら今月締めの請求書と納品書です」
「んー、置いといて」
「分かりました」

おざなりな返事にも律儀に対応し、美織は机の上に請求書と納品書を分けて置く。何気なく園島が真面目な顔で凝視しているノートパソコンの画面を見ると、画面の隅に、縮小画面にしたワードソフトでは隠し切れないソリティアのウィンドウが覗いていた。

残業を終えた美織は、部屋の戸締りを終えて、裏手にある管理人室横にあるキーボックスに鍵を収めると、ビルの裏口から外に出た。
夜九時を過ぎると、表玄関はシャッターが下ろされる。会社の事務所が入っているビルの裏手は、表玄関に面した通りとは全く趣を異にしている。表は綺麗に舗装された四車線の道路と広い歩道が走っているのだが、裏手は一転、薄暗い道だ。空き家も多く、うらぶれたラブホテルが点在し、どこかは知らないが暴力団の事務所もあると言う。幸いにも、薄暗い通りはそれほど歩く必要がない。五分程度で、表通りに出る細い路地がある。その横道は少し明るい雰囲気になるが、それでも表の通りよりは影が多い。いつものように美織は大通りまで早足で歩き、ほっと息を吐いた。
駅のホームでスマートフォンを確認する。LINEやメールのアイコンに、新着メッセージの印は出ていない。スマートフォンを鞄に戻したところで、電車がホームに滑り込んで来る。乗り込んだ美織は、戸口の近くに立った。乗車時間は十分程度だが、その十分が美織にとって唯一の安息だ。鞄から本を取りだす。栞を挟んだページを開いた。
美織が読んでいる本はアッカド神話だ。元々、美織は神話には興味がなかった。けれど、中学生の時に自殺した父親が文学部の教授で、神話について研究していたと知った時から、様々な神話を読むようになったのだ。
すると、意外にも美織は神話に嵌ってしまった。神話はただの物語ではない。背景には歴史があり、当時暮らしていた人々の価値観や生活を反映している。父親ほど研究熱心にはなれないが、過去の片鱗を覗き見るのは楽しかった。
今読んでいるのは、アッカド神話の中でも『イシュタルの冥界下り』と呼ばれる話だ。イシュタルというトラブルメーカーの女神が、地下世界のクルで奔放に振る舞う。結果、クルの支配者エレシュキガルの怒りを買い殺されてしまう。イシュタルの召使いが神々に懇願しどうにか復活するものの、代わりに誰かを殺してクルに差し出さなければならない。そこでイシュタルが標的としたのが、戻って来たイシュタルを疎んだ夫のタンムーズだった。だがタンムーズが亡くなった後、イシュタルは悔いる。
正直なところ、美織はイシュタルには全く共感できない。自由奔放で気儘なイシュタルは、ただの嫌な女でしかなかった。
十分程度ではそれほど多くを読める訳ではないが、イシュタルの冥界下りは長い話はない。話は、タンムーズと彼の姉妹であるゲシュティンアンナが半年ずつ、交互にクルに行くことで決着がついた。
次の話の冒頭ページに栞を挟み直し、美織は電車を降りながら鞄に本をしまう。
駅前の駐輪場から自転車を出し、家に戻る。
家では鬱病の母親が待っている。

「――寝てるかなぁ」

母親が鬱病と診断されたのは、美織が社会人になった時だった。父親が自殺した頃から様子はおかしかったから、美織が社会人になったことで、緊張の糸が解けたのかもしれない。鬱病の治療は一進一退だと聞くが、ここ最近の母親は塞ぎ込んでいるように見えた。
もうそろそろ通院の時期だから、薬の量を増やすなり新しい薬にするなり、医者と相談するよう言った方が良いかもしれない。

「でもそれだと、ちゃんと話してないのに相談したとか嘘言いそうだしなあ。手紙――も渡すか分からないし」

母親は鬱病を恥ずかしいと思っているのか、それとも正直に病状を話すと怒られると思っているのか分からないが、医者に調子が悪いとは伝えない。本当は美織も病院に同行できれば良いのだが、仕事の現状を考えれば難しい。
知らず、美織は深い溜息を吐いていた。
母親が起きていると、緊張する。鬱状態の人が纏う雰囲気は、一緒に居るだけで疲れるものだ。母親が寝ていると、本当に生きているのか息を確かめる。そして今日の分の睡眠剤がなくなっているか確認して、起こさないよう息を殺して生活する。
自分まで鬱病になりそうだが、一人娘の美織が逃げる訳にはいかない。もう、父親も居ないのだ。美織が見上げた空には、月も出ていなかった。

2.

翌朝、美織は表玄関から入って管理人室横のキーボックスに鍵が入っているか確認した。案の定、鍵はキーボックスに入ったままだ。美織が一番乗りである。そのまま事務所に行こうとした時、管理人室の窓がガラリと空いた。

「ねえ、君」

美織は振り向く。どうやら美織の勘違いではなかったようで、明らかに管理人は美織に話しかけていた。

「君、場科製作所の人だよね?」
「はあ――そうですけど」

頷いた美織に、管理人はこれ見よがしに溜息を吐いた。
「これさあ、こんなことされちゃ困るんだよねえ」と差し出された数枚のビラを美織は受け取る。ビラには「詐欺師」やら「泥棒」やら、大きな文字で罵詈雑言が書かれていた。

「いえ――あの、心当たりがないんですけど」
「一番下のビラ、見てみなよ。はっきりと書いてあるじゃない。ジョウカセイサクショって、あなたの所でしょ。このビラが玄関にでかでかと貼ってあって――困るんだよねえ、こういうの」

言われるがまま、美織は一番下のビラを見る。確かにそこには、『場科製作所の詐欺師園島は金を返せ』と印字してあった。
確かに美織は場科製作所に勤めてはいるが、この一件には無関係だ。苦情を言われても、どうしようもできない。だが管理人も誰に言えば良いのか分からず、結果的に最初に姿を見かけた美織に告げたのだろう。推察した美織は、控え目な微笑を浮かべて頭を垂れた。

「本人に申し伝えておきますね。すみませんでした」
「こんなこと、二度とないようにしてよ」

管理人は言うだけ言って満足したのか、窓を閉める。美織は踵を返してエレベーターホールに向かいながら、「なんだろう」と眉間に皺を寄せる。

「今日は厄日なの?」

堪え切れない溜息が洩れる。エレベーターホールには誰もおらず、ほっと表情を緩めた。半分に折ったビラに目を落として、「碌でもない」と独白する。
確か現在、借金の取り立ては職場に来てはいけない事になっている筈だ。警察に電話をすれば取り締まってくれる。だからたいていの業者は職場にビラを貼るという古典的な手段は使わないのだが、どうやら園島は碌でもないところから借金をしたらしい。
業務中の頻回の電話も、借金取り相手に違いない。これもまた、取り締まりが厳しくなってからは控えられるようになっている筈だ。
エレベーターに乗って事務所のある五階まで昇る間も、美織は考えていた。
もしかしたら、借金している先も一件ではないのかもしれない。
チンと音が鳴って五階に到着する。美織は鍵を開けて事務所に入ると、パソコンの電源を入れた。
昨日メモしておいた今日分のタスクに優先順位をつけ、何時頃までに何を終わらせるか、目算を立てる。勿論、途中で頼まれる仕事も多々あるから、予定通りに仕事が進んだ試しはない。人が来るまでに出来る限り仕事を進めてしまおうと、美織は仕事に取り掛かった。
だが、どうしても管理人から引き取った借金取りのビラが気になる。自分と無関係だとはいえ、あまり持っておきたくないものだ。結局、美織が仕事に集中できないでいる内に、社員たちが一人二人と出社して来た。園島部長は最後だ。

九時になり、朝礼が始まる。園島部長の訓示と激励が終わり時計を見ると、九時十分を少し過ぎていた。相変わらずの長演説だ。
美織は自席に座る。借金取りのビラをさっさと園島に渡したかったが、人目があるところでは憚られる内容だ。仕事をしながら機会を窺っていたが、もうすぐ昼休みというところで好機が訪れた。営業部員が出払い、アゲハがお手洗いに立ったのだ。美織は引き出しにしまっておいたビラを取り出すと、急いで園島の席に向かった。

「部長」
「なんだ」

園島は美織を見上げる。美織はそっと二つ折りにしたビラを園島に差し出した。

「なんだ?」

訝しげな表情の園島に、美織は「ビルの管理人さんから今朝渡されました。こういうビラは困る、と」と伝える。ビラを開いた園島の表情が強張る。

「工藤。これは誰かに言ったか?」
「いえ、誰にも言っていません」

美織ははっきり首を振る。園島は「なら良い」と低く唸り、ビラを美織に突き返した。

「シュレッダーにかけとけ。他言無用だ。分かってるな」

美織は「はい」と頷き、受け取ったビラをシュレッダーにかける。その間も園島の鋭い視線が背中に突き刺さっている気がして、居心地が悪い。裁断が終わりシュレッダーを止める。振り向くと、険しい表情の園島と目が合う。

「えっと――」

まだ何か話があるのかと美織は戸惑う。園島は小さく舌打ちすると、ノートパソコンに向き直った。美織は首を傾げながら、自席に戻る。丁度その時、部屋の扉が開いてアゲハが戻って来た。

「ぶちょー、ちょっと聞いてくださいよぉ」

アゲハは真っ直ぐ園島の席に向かうと、女性トイレの掃除が行き届いていないと文句を言い始める。園島は楽しげに笑いながら、「そりゃあ酷いなぁ。管理人に言った方が良いかもな」と相槌を打っている。そして、アゲハが満足して黙ったところで、「工藤!」と顔を美織に向けた。

「はい」
「今の話、管理人に言っとけ」

美織は瞬く。アゲハは園島の隣に立って、口角を上げて美織を見ていた。

「センパァイ、お願いしますぅ」
「――はい」

美織は頷いた。手足の先が急激に冷える。園島が美織を見る目には、敵意しか残されていなかった。

美織は、溜息を吐いた。窓の外は真っ暗だ。疲労感がずっしりと両肩に圧し掛かっている。壁掛け時計の秒針が進む音を聞くともなしに聞きながら、パソコンをシャットダウンして、背伸びをする。壁に掛けられた時計は、十一時を指し示していた。

「何でこんな時間まで残業してるんだろ」

大した給料でもないのに。

うんざりと呟いて、美織は帰り支度を始める。園島はお気に入りの営業数名と飲みに行った。アゲハは当然のように定時退社だし、信二も美織を置いて早々に帰宅した。

「信二のバカ」

鞄を持って立ち上がった美織は口をへの字に曲げる。園島が性質の悪い消費者金融から金を借りていると知ってしまったせいか、午後はずっと園島から敵意に満ちた視線を向けられていた。必要のない雑用を言い付けられ、自分の仕事が殆どできなかった。アゲハに仕事を振ろうとしても、園島に阻止される始末だ。疲れ切っている時に欲しいのは癒しだ。だが、美織の家に癒しはない。鬱病の母親と二人きりの生活は、常に緊張と隣り合わせだ。
坂下信二とは、入社の時から気が合った。信二は美織のしっかりしたところが良いと言い、美織は信二の優しいところを好きになった。他の同期たちよりも親密になるのに時間はかからず、入社半年後から付き合い始めて、この秋で丸五年だ。
年齢も年齢だし、そろそろ結婚もしたい。
美織がそういうと、信二は「そうだね」と笑って頷いた。結婚指輪も見に行った。だが、最近の信二は様子がおかしい。今までは出来るだけ一緒に帰っていたのに、ここ数ヵ月は美織を待たずに慌ただしく事務所を後にする。

「さすがに、五年も付き合うと倦怠期なのかなあ」

だが、美織にとって五年も付き合った彼氏は信二が初めてだ。今までにも何人か付き合った人はいるが、長くて二年だった。二年付き合った彼氏とは結婚を考えたが、美織の母親が鬱病だと知ると、掌を返したように余所余所しくなった。それでも当時は二十代前半だったから、先があると悠長に構えていた。だが、美織はアラサーだ。先のことを考えなければならない年齢である。

「そりゃあ、適齢期も年々上がってるとは言うけどさ。暢気に構えてる余裕もないんだって」

美織は溜息を吐くと、消灯し入退室管理表に自分の名前を書きいれる。ここ一ヵ月、最初の入室者も最後の退室者も美織の名前で占められている。
扉の鍵を閉めてエレベーターのボタンを押すと、頭上の数字が最上階から一つずつ下がって来る。徐に鞄からスマートフォンを取りだし、メールをチェックする。着信が二件、そしてメールが三通。履歴を確認して、美織はうんざりと空を仰いだ。

「――本当、勘弁してよ」

電話もメールも、全て母親から送られて来たものだった。メールには、このままだと生きていけない、一人だと寂しい、あんたは仕事を取って私を捨てたのか――と、暗澹たる気持ちにさせられる文章が書き連ねてある。着信とメールの時刻を見れば、午後一時から二時の間だ。美織が昼休憩から上がったばかりの時間である。メールに気が付く訳がない。だが、母親が納得するとは到底思えなかった。
エレベーターが到着する。美織は乗り込んだ。他に人は居ない。一階のボタンを押すと、特有の浮遊感が体を包んだ。あっという間に一階に到着する。ビル裏手にある管理人室の隣にあるキーボックスに鍵を入れ、ビルの裏手から出る。
美織は一旦スマートフォンを鞄に戻し、早足になった。五分も歩かずに、表通りに出る細い路地に辿り着いた。その路地に足を踏み入れた時、美織は眉根を寄せた。細路地の真ん中にあるラブホテルから出て来た二つの人影があった。

「平日だってのに、良いご身分ね」

美織は小さく吐き捨てた。さっさと二人を追い抜こうと思ったが、二人が街灯の下に出た時、見覚えのある姿に目を瞠った。

「――信二?」

美織の声に、二人共振り返る。美織は連れ合いの女性を見て絶句した。

「佐藤さん?」
「美織――」

まさか見つかるとは思っていなかったらしい。信二も言葉を失っている。アゲハも目を瞠って、美織を凝視していたが、やおら口を開いた。

「センパイ、――ごめんなさい」

アゲハの小さな、けれどはっきりした声に耐え切れず、美織は顔を伏せると二人の脇を足早に通り抜ける。近づきたくはなかったが、仕方がない。二人に一番近付いた時、シャンプーと石鹸の香りが漂って来た。

美織が駅についた時、電車がホームに滑り込んで来た。路地から逃げるように走り去った時とは打って変わって、悄然とした足取りで電車に乗り込む。普段は扉の傍に立つが、今日はそんな元気もなかった。幸いにも数席ほど空いていたので、適当な座席に腰掛ける。
小さく息を吐いて鞄からスマートフォンを取りだした。メール画面を起動して、母親に『メール気が付かなくてごめんね。残業終わったから、今から帰るね』と返信する。
ホーム画面に戻ると、LINEのポップアップがメッセージの着信を告げた。サムネイルに表示された相手の名前と文章を見て、美織は鼻で笑う。

「なにそれ、意味わかんない」

隣に座った、疲れ切った顔のサラリーマンが美織を見た気配がする。美織はちらりと視線を向かい側の窓に向けた。車窓に映る隣のサラリーマンの顔も自分の顔も、疲れ切っている。美織の唇を自嘲が彩った。
その間にも、信二は「話したい」「今時間ある?」などと立て続けにメッセージを送って来ている。既読にする気にもなれず、美織はスマートフォンを鞄に戻した。
十数分電車に揺られて、地元に到着する。駅近くの駐輪場に預けていた自転車に乗り、十五分――民家に囲まれたマンションが美織の家だ。マンションの一階にある駐輪場の定位置に自転車を置いて、エレベーターホールでエレベーターを待つ。その間に再びスマートフォンを開いた。信二からは更に十件コメントが来ていたが、サムネイルで見る限り、どこにも謝罪の言葉はない。

「まあ、謝られても困るんだけどね。やることはやってるんだし」

堪え切れずに呟いて、サムネイルを消す。メールをチェックしたが、母親からは返信がなかった。少しほっとして、また違う恐怖が湧き起こる。

「今日も寝てるなら良いんだけど――元気ではないだろうな、あんなメール送って来るくらいだし」

先ほど見た光景を頭から追いやりたくて、美織は敢えて家で待っている母親を脳裏に思い描く。
エレベーターに乗って四階まで上がる。廊下の最奥が美織の家だ。ヒールが響きすぎないよう気を使いながら廊下を歩いて、家の扉に鍵をさす。そっと回して、出来るだけ音を立てないよう家に入った。
キッチンを通って寝室の様子を窺う。美織の収入では、2DKを借りるのがやっとだ。しかも、母親の治療費も美織が負担しているから、贅沢はできない。
家の中は真っ暗だった。美織は足音を忍ばせて、寝室に向かう。母親は布団をかぶって寝ていた。暗闇の中目を凝らして、布団が上下しているのを確認し、美織はほっと息を吐く。

「――良かった」

これでようやく、美織は自分の寝支度ができる。
キッチンに戻った美織は、母親の薬の残量を確かめる。ちゃんと睡眠剤も減っていた。睡眠剤を飲んだということは、多少物音を立てても母親は目覚めない。睡眠剤を飲まない時の母親は、ちょっとの物音でも目覚めてしまう。
信二のメッセージでLINEの通知件数が酷いことになっているだろうスマートフォンは見ずに、美織はさっさと布団で寝ることにした。

翌日、美織は寝ている母親に「行ってきます」と告げ、重たい足を引きずりながら会社に向かった。朝起きると、LINEの通知件数は十数件に上っていた。全て信二からで、ホテルに誘ったのはアゲハだということ、浮気するつもりはない、好きなのはお前だけだということがつらつらと言い訳のように並べられていた。アゲハは既読を付けずに、サムネイルを非表示にした。
本当は会社を休みたかったが、何も悪いことをしていない美織が一人、気まずくなるのも馬鹿みたいだ。それに、美織が休んだら仕事は溜まる一方である。アゲハがきちんと書類を回せるとは思わないし、書類の不備を後から修正する羽目になるのは美織だ。
キーボックスから鍵を取り出す。管理人室の窓が開き、昨日と同じように声を掛けられる。はい、と言って振り向けば、管理人がぶっきら棒にビラを突き出した。咄嗟に美織は受け取る。

「あんたに言っても、どうしようもないのかもしれないけどな。このまま続くようなら、このビルから出て行って貰うよって言っておいてくれるかい。契約は延長しないよって」
「――はあ。申し訳ありません」

美織は頭を下げる。朝から気分の重たくなるような出来事だ。エレベーターで五階に上がり部屋に入ると、美織は真っ先にビラをシュレッダーにかけた。

美織が到着して二十分、ようやく他の社員たちも出社する。定時ぎりぎりに到着した坂下信二は、美織から逃げるように外勤に出た。美織は、信二には一瞥もくれなかった。一方、アゲハは普段通りだった。勿論美織に対しても変わりない。

「おはようございますぅ」
「おはようございます」

さすがに返事をしない訳にも行かず、美織は慇懃無礼に答える。今日もアゲハ節は健在で、茶髪は綺麗にカールを掛けて結い上げ、化粧もばっちりだ。耳には十円玉サイズの向日葵のピアスを着けている。
頭湧いてんじゃないの、という毒を美織は辛うじて飲み込んだ。

「センパイ~、昨日はごめんなさいでしたぁ」

悪気はなかったんだけどぉ、信二さん、寂しいってゆうから可哀想でえ。

アゲハは世間話をするように続ける。まだ部屋に残っていた営業や園島が聞き耳を立てている。美織はアゲハの言葉を遮った。

「佐藤さん、もう定時よ。さっさと仕事の準備してくれる?」

悪気がないなら何なのよ、許されるとでも思ってるの。第一、会社のすぐ傍のラブホにしけこんで、私が残業してるのも知ってて。明らかに私に見せつけようとしてるじゃない。
咄嗟に出て来そうになった罵詈雑言を抑えて、美織は努めて事務的に言う。すると、アゲハは目をぱちぱちと瞬かせて、「さすが、動じないんですねえ」と笑った。

「あんなことがあったのに、センパイってばクールゥ! 感情とかないんじゃないですかあ? 本気の恋とか、したことなさそう」

全く悪びれる様子のない口調だが、アゲハの目は笑っていない。美織の微笑を浮かべた頬が引き攣った。

「――大丈夫よ、人並みの倫理観は持ち合わせてるから」

それだけ告げると、再びパソコンに目を向ける。口の中が苦くて仕方がない。

結局、信二は昼休みに美織に声を掛けて来た。

「なに?」

美織はつっけんどんに言う。信二は少し怯んだが、意を決したように口を開いた。

「美織。昨日はアゲハに誘われたんだ、悪気はなかったんだよ。仕事で悩んでるって相談されて、相談に乗ってる内に一回で良いからって言われて――それで」

美織は腕を組み、これみよがしに溜息を吐いた。

「それで?」

信二が口を噤む。美織は無表情だ。

「浮気をしたって事実は変わらないわ。相談に乗ってその流れでセックスするとか、自分の優柔不断さに甘えてるだけじゃないの」

美織の容赦のない言葉に、信二は絶句する。美織は淡々と「別れましょう」と言った。未練はなかった。あるのは裏切られたという怒りだけだ。

「でも――」

なお言い縋る信二に、美織は再度溜息を吐いた。

「一度崩れた信頼はもう二度と戻らないって、あんたも営業なんだから、身に染みて知ってるでしょう」

言葉を失った信二に、さようなら、と美織は言う。鬱病の母親だけでも手一杯なのに、信二の面倒までは見ていられない。
二人して不幸になれ。
苦々しい表情を隠すこともできず、美織は仕事に戻った。

普段は定時ぴったりに帰るアゲハは何故か会社に留まっていて、暇そうにスマートフォンを弄っている。さっさと帰れば良いのに、と思っていると、他に誰もいなくなったタイミングでアゲハが徐に口を開いた。

「そういえばセンパイ」

自分に話しかけているのは分かったが、美織は答えなかった。アゲハは美織の無反応を意に介さず、面白そうな口調で続けた。

「お母さん大変なんですよねえ。鬱なんでしょお? 残業毎日してるみたいだけど、さっさと帰ったらどうですかあ? 帰ったら死んでるかもしれないしぃ」

アゲハの言葉は、無邪気さを装った悪意だ。

「佐藤さん」

堪らず、美織はアゲハの言葉を遮る。自分の言葉が棘を含んでいる自覚はあった。

「言って良いことと悪いこと、その年になっても区別が付かないの?」

美織はそれだけ言うと、再びパソコンに意識を向ける。タイプミスを消して、打ち直す。アゲハの言葉で動揺を誘われたのが悔しかった。
アゲハは暫く沈黙していたが、やがて「おもしろーい」とはしゃいだ声を出した。

「センパイも、ずっと穏やかだと思ってたけどそうでもないんですねえ。実は裏表が結構激しいとか? 信二さんが嫌になるのも分かる気がするなあ。それに、義理のお母さんが鬱病なんて、お先真っ暗ですよねえ。しかもお父さんが居なくて一人っ子なんて、完全に介護だけで人生終わっちゃうし」

美織の母親が鬱病であることは、信二以外には誰にも言っていない。信二が美織の母親のことをアゲハに告げたのは明らかだった。そして、恐らくアゲハは美織の母が鬱病であることを社内の人間に言い触らすだろう。
鬱病は多少社会に受け入れられるようになって来たとはいえ、未だに偏見の多い病気だ。今までは普通に美織に接していた人たちも、態度が変化するのは目に見えている。
けらけらと軽い笑い声を立てたアゲハは、美織が何かを言う前にスマートフォンを耳に当てた。

「信二くん? もう仕事終わるう? 今日これからこの前言ってたイタリアン行きたいなあ」

話の内容に、美織は固まった。横目で美織の様子を窺っていたアゲハの口元に微笑が浮かぶ。

「今あ? 大丈夫、一人だから。それじゃあ、いつもの所で待ってるね」

美織はそういうと立ち上がり、「お先に失礼しまあす」と満面の笑みを美織に向けた。そして、ふっと表情を消して真っ直ぐ美織を見る。

「私、センパイみたいなタイプの人、大っ嫌いなんで。清々しました」

それじゃあ失礼しますぅ、と再び笑顔を浮かべてアゲハは事務所を出て行く。
美織は息を細く長く吐き出した。

「――本当にもう、何なの」

固く目を瞑る。そうしないと、泣き出してしまいそうだった。

3.

中々仕事が捗らず、美織は残りの仕事を明日に回すことにした。帰り支度をする。時計を見ると八時四十五分だ。まだ正面玄関が開いている。
戸締りをして鍵をキーボックスに預けると、美織はさっさとビルを出た。
信二の裏切りにも、アゲハの心ない言葉にも、園島の敵意に満ちた視線にも、全てに美織は疲弊していた。何一つ悪いことはしていないのに、疲労困憊している。

「もう本当……最悪」

全てが恨めしいと、美織はぼやく。
何故自分ばかりが貧乏くじを引くのか、美織には理解できない。世の中は理不尽なものだと、母親が鬱病になってからずっと思っているが、立て続けの悲劇は美織の知っている理不尽さを上回っていた。
電車に乗って、家の最寄り駅で降りる。
駐輪場に向かって歩いていると、ふと美織は目の端に何かが動いた気がした。歩調を落としてそちらに目をやる。影だと思っていたのは、真っ黒な猫だった。暗闇の中、街灯の光を受けて片方だけしかない緑の右目がキラキラと輝いている。

「わ、綺麗な目。初めて見た」

道端をうろちょろしている猫はこの近辺で何匹か見たことがあるが、片目の猫は初めてだ。美織は翡翠のような目に魅入られる。帰らなければならないのも忘れて立ち尽くしていると、猫はふいと踵を返して歩き出した。数歩進んで、振り返り美織を見る。目が合った時、猫がにゃあと一声鳴いた。
無意識に、美織の足が動く。猫は美織を先導するように進んでは、時折着いて来ているのを確かめるように立ち止まり美織を振り返った。やがて、猫は一軒の空き家に入って行く。民家だったらしいそこは庭の草が伸び放題で、近々取り壊される旨が書かれた看板が立っていた。
普段ならばそこで諦める美織だが、足は止まらない。開きっ放しの門から中に入る。黒塗りの門は錆びた鉄が露出していた。猫はほんの僅かに開いている玄関扉の隙間から中に入る。美織は一瞬躊躇ったが、意を決し、雑草を踏みつけて家の扉を開いた。

暖炉の火が燃えている。最初に美織の視界に入ったのは、映画の中でしか見たことのないような洋風の古びた暖炉だった。暖炉の上には、黒い猫の置物が置いてある。右目が翡翠で、左目にはぽっかりと黒い眼窩が覗いていた。

「これは珍しい。お客人ですか」
「え?」

美織は目を瞬かせる。美織の入って来た扉に背を向けて置いてある、ロココ調の椅子から声がした。
美織はその場に立ち尽くしたまま、椅子を凝視する。立ち上がったのは、黒の燕尾服を着た細身の男だった。白い手袋をはめている。背が高く、灰色の目は鋭く光っていた。鷲鼻で唇は薄い。明らかに日本人ではないが、彼の口から紡がれる言葉は流暢な日本語だ。

「いえ――あの、客人というか……」

美織は戸惑う。訪れたくて訪れた訳ではない。猫を追って来たら、いつの間にか異国情緒あふれるこの部屋に居たのだ。

「すみません、帰ります」

美織は会釈して踵を返し、背後の扉から外に出ようとし――固まった。つい先ほど通って来た扉がそこにはなかった。代わりに、白い壁がある。

「――え?」

美織は慌てて周囲を見渡すが、部屋の中にはおよそ扉といえるようなものはなかった。唯一、外と屋内を繋いでいるものは小さな窓だ。その窓から見える景色に美織は今度こそ絶句する。
見渡す限りの大海原だ。それも波が激しい。太平洋の波ではない。昔旅行で訪れた日本海の波にも似ているが、窓の端にちらりと見えた崖上の灯台は煉瓦造りのようで、日本のものには見えない。そもそも、美織の地元は内陸で、海には面していない。
夢でも見ているのだろうか。
美織が黙り込んでいると、男は先ほど自分が座っていたものとは別の椅子を指し示した。そちらもロココ調の豪奢な椅子だ。

「どうぞ、お座りください」

美織は躊躇う。

「いえ――あの、帰りたいんですけど」
「残念ながら」

美織の言葉は本心だったが、あっさりと男に拒否された。

「この屋敷は――この部屋と言った方が適切ですが――我々を必要としている方だけが来ることが出来るのです。そして、一度入った方は、望みを我々に託す他にこの部屋を出ることはできません」
「望み?」

美織は眉根を寄せた。

「なにそれ、押し売りみたい」
「否定はしません。むしろ、悪魔の商売といった方が適切かもしれません」

男の表情は殆ど変わらない。だが、唇に微苦笑が浮かんだ気がした。美織の背筋を冷たいものが走る。身震いして、美織は目の前の男を睨んだ。

「本当に、私の希望を託さないと出られないわけ?」
「仰る通りです」

どうぞ、と再び椅子に座るよう促され、美織は諦めた。大人しく椅子に座る。少し座面が堅いが、座りやすかった。

「望みを託すって、結局どういうことなんですか?」

美織は率直に尋ねた。男もゆったりと椅子に腰掛け、両手の指先を胸の前で合わせる。

「貴方が今望んでいることを、我々に話して頂き、その願いを我々が叶えるということです」
「さっきから我々って仰ってますけど、貴方以外に誰かいるんですか?」

美織は不審を隠さずに問う。男は悠然と、視線を暖炉の上に向けた。

「ええ、いますよ。そこに、黒猫が」

美織も男の視線を追って暖炉の上を見る。黒猫はどう見ても陶器の置物にしか見えない。だが、そのことを指摘する気にはなれず、美織は「へえ」と曖昧な言葉を返した。

「黒猫って、不幸の象徴なんでしょ? 目の前横切ったら悪いことが起こるっていうし」
「まさか」

男は美織の言葉を笑って一蹴する。美織が男を見ると、男はまだ猫の置物を眺めていた。

「一説に、黒猫は幸福の象徴と申します。その幸福が目の前を通り過ぎるから、幸福が去る――即ち、黒猫が目の前を横切ったら良くないことが起こるという話です」
「ふうん」

美織も黒猫を見る。

「でも、黒猫って魔女の手下なんでしょ?」
「魔女はキリスト教の創り出した幻想にすぎませんよ」

男は美織に視線を移していた。

「キリスト教発生以前、ユダヤ教はありましたが、その他は多くが多神教でした。キリスト教が広まり、多神教は廃れた。崇め奉られなくなった神々が、キリスト教では敵対するもの、悪魔や魔女として扱われるようになったのです。多神教の神々は、ほとんどが存在を忘れられ、そして一部は神話として残りました。その神々が実在したのか実在していないのか――今や人々は、研究者でさえ実在を信じていませんが、実在していないという証拠もありません」
「そうなんですね」

美織は頷く。男の講釈を全て信じた訳ではない。ただ、怪奇な現状から早く脱出したかった。
男は美織に聞く気がないと悟ると、あっさりと話を元に戻した。

「さて、貴方の望みを叶えるという話ですが――依頼料は発生します。貴方の一番大切なものをいただきますので、悪しからず」

思わず美織は深い溜息を吐いた。

「それ、完全に詐欺師じゃない。私は頼んでないのに、勝手に『望みをかなえる、依頼料は寄越せ』って――今日日、幼稚園児でも詐欺だって分かるわよ」
「いかにも」

男は真面目な表情で頷く。美織は男を睨んだ。

「分かったなら、この部屋から出して。さっさと家に帰りたいの」
「それが貴方の望みですか?」
「そうよ」

他に何か望みがあるとでも言うのだろうか。
美織ははっきりと頷いた。だが、男は苦々しくに首を振る。

「残念です」
「何がよ」

美織は男を睨み付ける。男は泰然自若と美織の視線を受け止めて、「我々が承るのは、貴方が今強く願っていることです。その願いを口にすれば、貴方は自動的に元の世界へ戻れます」と説明した。

「しかしながら、貴方はまだその椅子に座っていらっしゃいます。この部屋から出たいという願いは、貴方の本当の願いではないということ。違いますか?」

男の灰色の目は不気味に光っている。虹彩の色が深く、濃くなっていく。美織は男が纏う雰囲気に飲まれ、言葉を失った。
沈黙が落ちる。美織は生唾を飲み込んだ。見えない大きな力で体を圧迫されている気がした。男の目を見つめたまま、美織は何度か口を開く。虚ろな表情になった美織は、喘ぐように声を絞り出した。

「――信二も、佐藤さんも、園島部長も――お母さんも、皆いなくなれば良い」

美織は魅入られたように男の目を見つめたまま、淡々と言葉を続けた。

「私が貧乏くじ引かされて、本当にうんざりする、私を蔑ろに扱う人なんて皆死んじゃえばいい、皆消えたらいい、地獄の苦しみを味わえばいいんです」
「なるほど」

男は頷いて、立ち上がる。その動きを、美織は見ていた。暖炉に近付いた男は猫の置物を手にした。およそ置物を扱うとは思えないほど丁重な仕草だ。
男は椅子に戻る。猫の置物は膝の上に置いた。美織の目は、黒猫に釘づけになる。翡翠の目が光っていた。怪しげな光に、美織は心を奪われる。

「それが、貴方の本心からの望みですか?」

男の声は靄が掛かっているように現実味がなかった。
美織はのろのろと口を開く。

「――私は、」

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