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占いと、風の時代の『運』について

占いの世界では、運という言葉はしょっちゅう使われる。以前に別の記事にもしたけれど(これこれ)、こんな不確かで目に見えない、立証もできない、実にあいまいかつ胡乱でいいかげんに思える概念もないものだ。

が、もしも運という概念が何の役にも立たないものであったなら、それなりに長い人間の歴史のどこかで廃れて完全に消滅するか、どこかの時代で死語になっていたはず、である。にも関わらず、現代の日常においても運という言葉はあちこちで使われている。たとえば「マスクや手洗いを頑張って、人混みも避けていたのに、『運悪く』例のウイルスを拾ってしまった」とか、「前に、事件が起こったあの列車に乗り合わせたけど『運良く』巻き込まれずに済んだ」とか。

運という言葉は、大体において『何の理由もなく良いことが起こる』もしくは『何の理由もなく悪いことが起こる』ときに使われる。つまり、起こった物事に対して何の理由も見いだせないとき、人間はどうも運という概念を持ち出すようなのだ。起こった物事に対して何か明確な理由が分かるときには、運という言葉は出てこない。そういうときは、「努力に見合った成果だ」とか、「自業自得だよね」とか、「そりゃそうだよ」とかいう言葉が出てくる。

善し悪し関わらず、『自分には分からないこと』を原因として何かが動いたとき、せめてそこに何か理由を見いだしたい、分からなくても事件には原因があるはずなんだと思いたい、そんな切なる願いが、きっと運という言葉の正体なんだろうと思う。

この現代において占いが廃れないのも、これが理由なんじゃないかな、と私は思っている。理屈や科学、物理の世界では『どうしてもわからないこと』を、それでもなんとか説明するための法則として、占いという道具は大変に便利である。占星術であれば、「理屈の上で証明のしようはないけれど、星の世界ではどうもこういうことらしい」と説明することができる。物理的に証明できないことを『証明できないままに扱う』ための言葉やしくみが、占いだ。

という訳で以下、2023年の夏至付近における私の『運』についての考えを書いておこうと思う。私にとってはどうしても占いと不可分の話なので、運と占いの関係についてもちょっと書いている。n=1の話であり、あくまで私という個人の考え方に過ぎないので、そういう考え方もあるんだな、くらいの感覚で読んで頂ければ幸いだ。

1.運と占いの関係

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