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「許せない」を許すべきか。

学生の頃は、なるべくなんでも許そうと思ってたし、大概のことはなんでも許せた。

寛容は優しさだと思うし、一人一人違うからこそ、自分の考えにそぐわないものを受け入れようとする意思が大事。人それぞれに背景があって、行為の裏側を読もうとする努力が大事。

数年前に、いつどこの何で読んだか完全に忘れちゃったけど「寛容な社会を保つためには不寛容に不寛容でいなきゃいけないんだよ」という主旨の文章を読んだ。

どうやらカール・ポパーさんという方の「寛容のパラドックス」というやつらしい。


たしかに、どこまでも寛容でいようと思ったら「じゃあ不寛容にも寛容でいるべきなんですか?」というクソリプみたいな哲学的問いが生まれるのもまあ当然と言えば当然な気がする。


それに、全部許容してたら、自分がもし何かの節に流されて流されて、他人を傷つける自分も許してしまったら、本当に許すことが優しさだと言えるのか。
自分の中に許せない部分を作ることによって、自分が許せない方向に行ってしまうのを防げるのでは。虚無虚無イズムな人間であっても、やはり善くいきたいなあとは思うのである。人に優しく、人に嫌われず生きたいのである。

不寛容を許さないべきか。

では不寛容とはなんですか。

自分が「不寛容だなあ」と思うことを「絶対的な不寛容」と捉えてしまっていいんですか。

なんでも見えちゃうからなあ。

結局、もうオリジナルの不寛容はどこにも見つからなくて、みんなで不寛容に不寛容を重ねてしまってるわけで、自分も不寛容に不寛容でいようとすると結局その一部にしかならない気がする。
それはなんか、よくない気がする。

軽蔑するべきものを軽蔑するべきか。

じゃあ何を持って軽蔑するべきものを「軽蔑するべきもの」と決めるんだろう。

戦争?差別?

それらがどうして軽蔑するべきものなのか。

多くの命が奪われるから。
たくさんの人を傷つけるから。
社会で禁止されているから。

じゃあ、多くの命が奪われるのを防ぐために、多くの命を奪おうとする多くの命を奪う行為は。

そんな大義なものじゃなくても、身近な人の許せないなあと思う行為を、「許せないなあ」と自分が思ってしまうことを許容していいものなんだろうか。

それとも広く他者の価値観を受け入れようとする姿勢を諦めない方がいいのか。

何を基準にして生きればいいのやら。


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