人の期待を裏切るのが怖い

学生時代から、今の自分に影響を与えてくれた人を3人いる。
思えば3人とも「先生」と呼ばれる人で、先生フェチなのかと思うが、たぶんそうである(と同時におじさん好き。)。

「先生」好きとなる原体験と思われるのが、最初に影響を与えてくれた中学1年生の時の担任の先生である。

1人目の先生は、最初はただの担任兼学級員の顧問と私は学級委員長。というだけで何も思っていなかった。転機は、中学校1年生の臨海学校の時、ちょっと悪いことをしてみたくて、禁止されていたお菓子を持って行った。それを誰かに密告され、その日の夜呼び出されて、こっぴどく怒られたことである。

その時の私は、先生なんて反抗する相手、学校の決まりなんて守らない方がかっこいいというちょっとだけワルの意識があり、呼び出されたときは、人に怒られたことがほとんどない私は、心臓がバクバクしながらも「お菓子くらいなんなの。そんなもんでしょ」と開き直った。そしたら、その先生に泣かれたのである。

「お前だけは信じていたのに」と。

先生は当時30代半ばくらいだったと思う。大人の男の人が泣くのを始めてみたし、驚いた。その時に、人は裏切ってはいけないんだと、強く感じたのを今でも覚えている。と同時に、こんな風に自分を信じてくれていた人がいたんだということも嬉しく感じた。その日の出来事はとてもショックで、と同時にその先生が大好きになった。大好きという表現がぴったりなほどその先生に入れ込んでいったといっても過言ではない状態で中学校3年間を過ごした。

その出来事から、真面目なこと、頑張ることはカッコ悪いことではない、と思い、代表委員として遠足の企画やテニス部の活動に真剣に取り組んできた。勉強も学年1、2位を争う超優等生で過ごし(天才肌ではなく相当勉強した)、頑張ればできるんだという経験もたくさんしたのが中学時代である。
一方、前記事に書いたようにギャルに憧れるという内面も抱えているのだが。

当時連絡帳のような毎日先生と生徒での交換日記のようなものがあった。担任のうちは毎日やり取りができるが、2年生から担任が変わってしまったのでそれができなくなると、交換ノートのようなものを個別に始めてもらった。どんな会話をしたかはもう忘れてしまったが、思っていたことを何でも隠さずに書いていたような気がする。

毎日1ページみっちり手書きで書いて、先生も1,2ページみっちり手書きで書いてくれていた。今思えば忙しいなかよく付き合ってくれたと思い感謝である。

でもこれを書きながら、ふと、気づいたことがある。

私にとってこの先生の期待を裏切ってしまったことは非常に大きな原体験である。この体験により、その後、過度に人の期待を裏切ることが怖くなっているということはないだろうか。

それが、今の自分の苦しさに繋がっていることはないだろうか。



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