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私の理想の穏やかな心

 たるんだ柔道部の練習と弾けた高校生活の中で、ある日、私の生き方を決定する体験をしました。

 ある日の学校帰りに本屋さんに寄り、そこで富田常雄の「姿三四郎」という本を見つけました。
 立ち読みをしてたちまちこの本のとりこになり、すぐに購入しました。その日は雨だったので、近くのデパートの軒下で雨宿りをしながら、立ったままで、本を読み続けたのを、今でも懐かしく思い出します。

 私がとりこになったのは、主人公の姿三四郎ではなく、姿三四郎の先生の矢野正五郎でした。
 矢野正五郎は、まさに私の理想とする人物像でした。

 少し長くなりますが、その本の一部を引用させていただきます。

「矢野」
と、専太郎は声に力を入れた。
同門の兄弟子の呼び方である。
「・・・・・・」
正五郎は指先に握飯の一塊をつまんだまま眼で答えた。その眼に柔和な笑いが浮かんでいた。
「柔山の道場開きに、戸田とか言う男をよこしてお前さんは来なかったな」
「あの日は抜けられぬ用事があった」
正五郎の返事は尋常で穏やかであった。
「俺が一勝負と思う時にお前さん逃げるな」
(略)
「勝負をする必要もなかろうと思う」
握飯を噛み噛み、正五郎は微笑した。
「何故だ」
「危いからなあ」
と、真実、正五郎は危険な場面を眼前にしたような嘆声をもらした。
「生き死にの勝負は仕方があるまい。真楊流の掟だぞ」
「私はそんな掟は知らなかった」
専太郎はいつか居丈高になっていた。
「免許と言い皆伝というのには法がある。その法を踏もうじゃないか、矢野」
「どんな法だろうか」
「同流の一番出来る人間が免許皆伝を貰って跡を継ぐんだ。たとえば、お前と俺だ。俺はまだお前と勝負をしていないぞ。死んだ二人の先生を悪く言いたくないが、お前の免許皆伝には俺が不服なのだ」
「わかった」
正五郎は、ようやく握飯を食べ終わると、静かに茶を飲んだ。
「やるか」
「場合に依っては」
「よし、日と場所を決めよう」
「ここではどうだろうか」
「ここで・・・」
専太郎は意表に出られて、相手の柔和な笑顔を疑うように見た。
「ここでもいいが、明神の境内は、遠慮した方がよかろう」
「では、私の家に来て貰えまいか。明日・・・いや、明後日の夕方にでも」
正五郎には一向に敵意が見えなかった。
「すると、十四日だな。だが、矢野。お前は道場がなかろうが」
「道場はないな」
「うむ。それなら、夕方までに河岸の勇組道場へ来い。待っているぞ」
「話しに行こう」
「忘れるなよ」
そう言うと、反射的に専太郎は起ち上がっていた。が、我から、敵の眼前を去るのに弱みに似た思いを感じて、蒼ざめて、正五郎の陰にいる早苗と彼を半々に見ながら顎をしゃくった。
「おい、矢野。お前はその娘と並んで、ちゃらちゃら歩いている方が似合うぞ」
「似合うか。はははは」
正五郎は頬をくずして、少年のように快活に笑った。
「怖い人達・・・」
早苗は肩を怒らせて去っていった三人を見送ってから溜息をついた。
「怖いことはない。あの人達も柔術に一生懸命なのだ」
「でも、先生は試合なさるのではございませんの。あの人と」
「さあ・・・」
正五郎はただ微笑して見せた。何を言われても怒らぬ彼を、早苗は不思議な一面を味わう気持ちで瞶めた。

この本を読んだ時から、矢野正五郎は私の理想の人物像となりました。
お気づきの方もおられと思いますが、私のペンネームもこの「矢野正五郎」にしているのです。

この本を読んだ後から、私の目指すのは、いつでも穏やかな心となりました。

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