見出し画像

「ひとり空間」と矛盾した「欲望」について ~南後由和『ひとり空間の都市論』を読んで考えたこと~

私は、子供の頃から「ひとり」でいること、「ひとり」遊びが好きだった。充実した「ひとり」の時間を過ごすことができるのは幸せなことだ。

以下では、私個人の「ひとり」時間についての話を2つほど。

1つ目の話。小学校高学年の時、学校、クラブの時間が終わった後は、「ひとり」でいることが好きだった。
私は巨人ファンであったが、新聞のスポーツ欄を切り抜いて、ノートに貼るということを毎日やっていた。試合の流れの解説といったの文章も切り抜いたかもしれないが、セ・パリーグの順位表、打者のホームラン数ランキング、試合毎の選手単位の打数、安打数についての表などの主にデータ部分を貼って眺めて、目立っていないが成績のいい選手を見つけたりなど、自分なりに読み解いて楽しんでいた。そのノートは友達にも見せて話をしたと思うが、自分の部屋の勉強机で「ひとり」でそのノートに貼り付けて眺めている時間が好きだった。

2つ目の話。この3年ほど、ランニングを趣味としている。週に1、2回、1回5km以内を走っているのだが、実は最近は、クールダウンの体操を最近見つけたJapanマラソンクラブのYouTubeを見ながらするのが好きだ。どちらかというと、気持ちよく体操をするために走っている自分がいる。
夜走った後に公園でいつものペースで体操をしていると、幸せな気持ちになる。私はこんなに、静かに「ひとり」でいることが好きなのに、こういう幸せな時間を普段、なかなか持てずにいるのだろう、と不思議に思った。

思い返すと、実家に住んでいた頃は家からすぐに行ける近くの海。大学時代は市立図書館の駐車場など、何か「濃い体験」をした後に、「ひとり」で静かに過ごせる場所が好きで、自分なりの最適な場所を確保するようにしてきた。静かで広くて落ち着ける空間が好きだ。

しかしながら、「ひとりで静かに過ごしたい」ことだけが人間の幸せなのであればもっとシンプルでよかったのだが、人はもう1つ、「ひとりは淋しい。仲間が欲しい自分」という矛盾する欲望を持っている。だからこそ厄介だ。

そのことを私の過去の苦い経験から考えたい。
私は大学時代に、友達とカラオケに行って、その場のノリに合わせることができなくて不機嫌になって黙り込んで、その場にいた人を心配させるということが何度もあった。人との距離をうまく取れなくて苦戦して自分でも悩んでいたが、それは今になって考えてみると、「ひとりでいたい自分」と「ひとりは淋しい。仲間と分かり合いたい」に折り合いが付けられない状態であった。気持ちに折り合いがつけられていれば、「(このカラオケの会を自分は楽しめそうにないので)自分は帰ります」と友達に言って帰ってしまってもよかった。

このような人との距離の取り方に悩んでいた私にとって、本書は人間の中にある2つの欲望、即ち「ひとりでいたい自分」欲望と「仲間と分かり合いたい」欲望の矛盾、対立をめぐる話として興味深く読んだ。

本書では、都市に住んでたくさんの人に出会おうとしているが自分の部屋は好きな物で埋め尽くして自分の落ち着ける場所を確保したい。SNSで常時たくさんの人と繋がっていたいが、時にはネットを切断して「ひとり」になりたい、などなどたくさんの都市における「ひとり空間」の様相が紹介されている。
読み進めると、「ひとりで静かに過ごしたい」欲望 VS 「仲間と分かり合いたい」欲望という矛盾した欲望が、かくも多様な商品・サービスを生み出し、様々な日本の文化を作り出してきたことに驚かされる。

その中で一番驚いた箇所は、「ひとりカラオケ店」について取材して書いている個所である。「ひとりカラオケ店」は、以下のような目的、使い方のために最適化されたカラオケ店である。

人前で歌う前の練習のために、「ひとり」でカラオケ店に行った経験がある人。歌う順番を待つ時間や他人の歌を聴くことに煩わしさを感じる人。「ひとり」で気兼ねなく大声で熱唱し、ストレスを解消したい人。そんな人たちのニーズに応えたのが、ひとりカラオケ専門店である。そこには、「相手の歌に無関心」でも、自分の歌がどう見られるか、自分がどう他人に気兼ねなく歌を歌うかには無関心でいられない人達が集まっている。

「ひとりカラオケ店」の写真を見ると、狭いスペースでマイクなど必要な器具がそろえてあり、まるでレコーディングスペースのようである。

さらに、本書で紹介されているところによると、この店に友達同士のグループで来店して「ひとりカラオケ」で楽しんだ後、また一緒に帰っていくケースもあるとのこと。また、ひとりで歌っているところをネットでライブ配信するという人までいるそうである。
結局どちらの欲望を満たしたいのだろうと笑ってしまうのだが、一方でこれも人間の欲望が生み出したカタチだと納得してしまう。

#PS2021

------------------------------------------------------------------------
本文は以上ですが、以下で、南後由和『ひとり空間の都市論』(2018年)の要約を書きましたので、ぜひ合わせてお読みください。

本書は、社会学、都市・建築論を専門とする南後由和が、都市・住宅、飲食店・宿泊施設、モバイル・メディアの過去から現在への変遷をたどりながら、都市の中で人が「ひとり空間」をどのように作ってきたのかを明らかにしたものである。

2011年の東日本大震災以降、日本の社会では、「つながり」「コミュニティ」の重要性が強調されるようになったが、本当に「つながり」「コミュニティ」だけが大切なのか。
「つながりたい」ということと対極にあると考えられる「ひとりでいたい」という欲望を人は持っており、日本の都市の中では、その欲望に基づいて、様々な文化が立ち現れて消えていった。

第1章では、都市社会学やメディア論を基に、「都市」において「ひとり空間」を作っていくとはどういうことかを概念的に考察。交通・通信が発達したことにより、人との距離感について、物理的に遠くても精神的には近い(またその逆もあり)という状況が発生することになった。

第2章は、住まいが木賃アパートからワンルームマンションへといった「ひとり空間」のあり方の変遷について。住まいの外部に対しては「移動性」を重視し、街を自宅の延長のように楽しむ一方、内部では自分の個室を「見せる個室」として、狭かったとしても自分だけの個性を発揮できるような「ひとり空間」とすることを志向した。

第3章は、飲食店・宿泊施設について。都市の駅前にはファストフード店、カプセルホテル、ネットカフェなど、「ひとり」になれる商業空間がたくさん作られている。集団・組織の外では孤立感を感じやすい日本人は、「ひとり空間」として楽しめる飲食店・宿泊施設を好むようになった。

第4章では、スマホ・SNS等の情報ツールによって、私たちの生活、例えば通勤・通学の電車の中や街を歩いている時にも自分のための「ひとり空間」を作ることができるようになったことを記述。いつでもネットに繋がれる常時接続社会となったが、簡単に人と接続できる楽しみを追求する一方で、時にはネットから切断して「ひとり」になるといった形で、最適化・チューニングを行うようになった。

終章では今後の「ひとり空間」のあり方について、P2PやIoTという新しい情報技術により、今までばらばらに存在していた「ひとり」同士がマッチングされ、新しい都市型コミュニティが生まれてくる可能性について論じている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?