ジャック・ケルアック『路上』

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スピード、セックス、モダン・ジャズそしてマリファナ……。既成の価値を吹きとばし、新しい感覚を叩きつけた一九五○年代の反逆者たち。本書は、彼らビートやヒッピーのバイブルであった。現代アメリカ文学の原点。 

福田実の旧訳で。青山南の新訳で読むとまた印象は変わるのかもしれないけれど、読後の感想としては、彼らにとって旅とは、路とは何だったのだろう?という疑問。

物語の冒頭で、主人公はこう語る。

僕には新しい呼び声が聞え、新しい地平線が見えた。
そちらの方向に行きさえすれば、どこかに、女の子も、夢も、あらゆるものも、きっと存在するのだ。

そうして彼らの旅が始まる。いかにもワクワクするオープニングだ。浜田省吾が

この道の彼方
約束されたはずの場所があると
信じて行きたい

「ON THE ROAD」

と歌い、辻仁成が

上から下までひっかきまわし
持ち合わせのない愛を探して
それでも何か足りないと
この道の上で朝を待ち続けている

「Jack」

と歌った、そんな道を旅する物語の始まりだ。

『路上』は、希望に充ちた旅の物語だと、勝手にイメージを作り上げていた。

確かに前半はそういう雰囲気だ。やることなすことハチャメチャで無軌道だけれど、まぁそこには何かへの渇望がある、と読める。何かを求めて旅をせずにはいられない若者たち。そういうお話なんだろうと思って読み進める。

第一部はニューヨークの主人公パラダイスが、ディーンという破天荒な友人に会うため西海岸まで旅をする。が、結局ディーンには会えずに旅は終わる。第二部では、ヴァージニアでディーンと合流した主人公が、今度は南寄りのルートでまた西海岸まで行って帰って来る。

この前半については、読み出す前のイメージとさほど大きなズレはない。ところが、第三部から、少し様相が変わってくる。第三部の旅は、主人公とディーンがこんな会話を交わすところから始まる。

「ニューヨークまで歩こうよ。歩きながらいつもやるようにいろいろ見て行こう―そうだ」と彼はいった。
「ここに八十三ドルと小銭がある」とぼくはいった。「君がいっしよにくるならニューヨークへ行こう―それからイタリアへ行こう」
「イタリアだって?」と彼はいった。彼の目は輝いていた。

二人とも日常に膿み、何処かへ旅をしたいという思いが募っている。そしてまた旅が始まる。やはり道中ハチャメチャで、それまでと同じような感じなんだけれど、主人公の言葉の端々に、何処かこれまでの旅とは違う、寂寥のような諦めのようなセンチメントが滲んでいるように感じられる。

赤ん坊を産んだばかりの内縁の妻を放り出して旅に出ようとするディーンを、友人の妻が批判する台詞に続けて

味気ないものだった。これまてにない悲しい晩だった。ぼくはまるで悲しい夢の中で見も知らない兄弟姉妹たちといっしょにいるような気がした。

と主人公は述懐する。そして、そんなセンチメントを振り払うようにこう呟く。

ぼくらはイタリアへ行くんだよ

しかし残念ながら彼らのイタリア行きは実現しなかった。四人もの子供ができたディーンには、そんな旅をする余裕はなかったのだ。

最後の旅に出た彼らはメキシコを訪れる。その旅の終わりにディーンが漏らした一言

「新規まきなおしだよ、君。おれは自分の生活に戻るんだ」

こうして彼らの旅は本当に終わった。

こうしてみるとこの小説は、ここではない何処かへ飛び出そうとする若々しい魂が、生活というものに絡め取られてその青春の輝きを喪う物語だと読める。

だから、読む前に抱いていたイメージは、物語前半にはよくマッチするけれども、後半からラストにかけての喪失感のほうが、読後強く胸に残る。希望ではなく失意と喪失、まさに青春小説の王道のような物語だった。

第三部がもっとも小説的な描写が深まっているように感じられるのは、まさに青春の輝きが喪われようとしている、その瞬間を主人公が自覚的に切り取っているからではないだろうか。

大江健三郎『われらの時代』は、この小説の第三部の影響もあるような気がする。

二点、気になることを最後に書き留めておく。
一つは、主人公には帰るべき家(おばの家)があり、旅の終わりには必ずそこに戻り、決してそこから徹底的に身を離すことをしない点、もう一つは経済的におばの支援を受けることになんの屈託も感じられない点。もちろん貧乏旅行先で働いて安賃金を得たり窃盗したりしてしのぐシーンもあるのだけれど、結局おばの経済的支援を拒むどころか頼りにしている。
この二点において、主人公にとってディーンとの旅とは、ある種の憧れではあったのだろうけれど、結局そこを終の棲家とするようなものではなかったように感じられる。有り体に言えば金持ちボンボンの道楽みたいなものではないだろうか。

そういったわけで、どうも読む前と読んだ後とで、かなり異なる印象になった一冊でした。本当に浜田省吾や辻仁成が歌ったロードとは、こういうものだったのだろうか。何だか酷く誤読している感が拭い去れないのだけれども。

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