世間話文化論


この前の土曜日、『ハガキ職人サミットII』に行ってきた。


前回から引き続いて現地で見たのだが、いつもラジオやTwitterを通して誠に勝手・不肖ながらその御名を存じ上げさせていただいているハガキ職人の皆さんの姿をリアルで拝見した、えもいわれぬ共感生羞恥みたいなものに襲われつつ、“ハガキ職人”として、そしてラジオリスナーとしての視点から語られるラジオの魅力や熱量みたいなものを十二分に楽しませてもらった。


好きなものを過不足のない熱量で語る人(そもそも本当に好きなものを語っている人は自然とそうなると思う)の話は自分が全く知らない分野でも面白い。

『アメトーーク!』の「〇〇大好き芸人」はその典型だろうし、学校の授業とかでもそうだ。内容はよくわからなくても、語るという行為だったり、お互いに感情を共有している様子だったりに惹かれてしまう。


しかも、その内容が自分の好きなものとなれば、熱量への共感がより具体的なものになるし、自分もその会話に加わっているような気持ちになるので本当に楽しい。知識があるから内容を理解しやすいっていうのもあるだろうけど。


やっぱり会話やそれを盗み聞きすることは立派なカルチャーだと思う。コロナ禍でその機会が失われてしまっているのが本当に惜しいところ。



そんな感じで、自分も勝手に登壇した気持ちで聞いていたので、話題について脳内でレスポンスしていた。

特にインサイド・ヘッドの議論が活発化したのが、「好きなコーナー」についての部分だ。


深夜ラジオのコーナーの大半はネタコーナーだ。それこそハガキ職人と呼ばれる人たちが考えた、いうなればフィクションの要素が強いもので、びっくりするほど面白い。イベントで挙げられたコーナーもネタ系が多かった印象がある。


自分は、『伊集院光・深夜の馬鹿力』の「空脳アワー」や、『エレ片のコント太郎』の「生きててよかった10個の事柄」、『バカリズムのオールナイトニッポンPremium』の「秘密の花園」、『根本宗子と長井短のオールナイトニッポン0』の「重たい話」など、エピソード系のコーナー、ネタがフィクションならリアル(リアリティ)に位置しているものが好きだ。


「空脳」は、不思議な体験についての投稿を募るコーナー。「空脳っぽい」としか表現しようがない、なんというか独特の不気味さが漂うメールが多く読まれて、世界とか人間の未知の部分に触れられる。

「生き10」はタイトル通り、その人が生きててよかったと思った事柄を10個送ってもらうもの。なかなか壮絶な人生を歩んでいる人や、パッと見そこまでハードではないけれど、色々感じながら生活している人の様子が伺えて、少しだけホッとする。(エレ片はこの他にもエピソード系のコーナーが多い。)

「秘密の花園」は、人には言えない秘密の出来事を募集する、ある程度の匿名性が保たれるラジオならではのコーナー。結構どろどろの内容が多いので、最後に何のとっかかりもないメールを1通読んで「チャラ」にするのが面白かった。

「重たい話」は、リスナーから重たいエピソード(犯罪系多し)を募り、メールを読むときに内容の確信に迫る部分を明るいBGMの音量を上げて隠しながら紹介していく。文脈から想像がつくものも多いのだけれど、本当にわからなくてゾッとすることもあった。


(普通こういう例を挙げる時って2つとか3つじゃない?4は多くない?)


上に挙げた4つコーナーは、どれも人生の中で起こりうる特殊な体験を紹介するという部分で共通している。ドラマチックなんだけれど、実際に体験しているという点でそれが現実世界の出来事ということが担保される。

ネタコーナーは面白さを「与える」イメージだけれど、エピソード系のコーナーは、それとは別次元の感覚・感情を「引き起こす」感じだ。単純比較はできないけれども。それが大好きだ。

(こう考えると、一般に「エモい」と言われている感覚って、「感動する」に言い換えられてしまうことが大半だから、不気味さや可笑しさ、湿っぽさがぐちゃぐちゃになったエピソード系のメールを聴いて感じるアレこそ「エモーショナル=エモい」じゃないか。)


もっというと、極端に何でもないエピソードが好きだったりする。
『秘密の花園』でチャラにするために読まれていたようなエピソードだ。これはもうラジオのコーナーに限った話ではない。


先日、友人と話していた時に、「毎朝ゴミを出すタイミングが一緒の人がいて、毎朝会うのに一回も挨拶をしたことがない」というエピソードを語っていたのだが、これがとても面白かった。今、文字に起こしてそれを読んでみてもちっとも面白くないのだが、(友人との関係性が積み上げられているという前提にあるにせよ)その時の話はとても面白かった。


何でもないけど、その人の記憶に引っかかって残り続けるものは不思議な魅力を持っている。

明確に分類したり、言語化したりすることはできないけれど、それぞれが持つ感覚の部分でふわふわと繋がって、確かに共有することができる。


意外とそういう話をするのって難しい。というか、その話ができる関係性に至るのが難しいのかもしれない。

そう考えると、何でもないつまらない話(本当は面白い)ができる場って貴重だし、それができない息苦しさは多分にあると思う。

世間話って大事だ。


ちなみに、自分はその友人に「別の友達と映画を見に行った時、ストーリーにどうしても引っかかるところがあって、それを終わった後にずっと言っていたら怒られた」という、ガチガチに固めたエピソードトークをもう100回くらいしている。

緊張感のない関係性に甘えるのは良くない。


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