死を考えてみると

陰気なタイトルですみません。決して自殺願望があるとかそういうことではありません。死を考えることで人生における新たな視点が生まれるかと思ったのです。

私には、まだまだ長い人生が残されております。持病も無くすこぶる健康です。家族にも恵まれ、仕事も充実しています。子どもの成長や自身のキャリア形勢、これからの未来が楽しみです。しかし、全てが順風満帆と言うわけではなくネガティブな要素もあります「今死んだら楽かな」と考えたくなることもあるわけです。

これが人生なんだろうなと言い聞かせてはいるのですが、生きることを考えることと同時に、死ぬことも同じくらい考えてみたいと思いました。

生きることについては山ほど情報が出てくるのに対し、死ぬことについての情報は僅かなんですね。生と死、言語的には対称関係にあるのに、現実的には生と死は全く対称ではなく、死は生の影に隠れているのです。

1)死を考えても怖くはならなかった。
まずは「どのように死ぬか」をイメージしてみました。今深刻な病気もないので、病死はイメージできず、イメージできたのは事故死や自殺でした。とはいうものの、事故死や自殺と言っても具体的な絵は描けず、想像できたのは死後の現実くらいです。単身赴任中の身である自分を見つけてくれるのは誰か?死体はどこに行くのか?残された家族にどれだけの迷惑を掛けてしまうか?最後に子供たちに会えず死んたらどれだけ辛いか?子どもたちに申し訳ない。妻は呆れて悲しんでもくれないだろう。今の財産(大して無いが)はどうなるのか?など、死後の現実については考えれば考えるほど、大変なことになることが容易にイメージができました。申し訳なさや虚しさばかりで、怖さは全くありませんでした。

2)死ぬ前にやり残したこと
37年の人生でやり残したことを振り返ってみました。私はこれまで自分の意志に沿って人生を歩んできたので、これといったやり残しは思い付きませんでした。まだ37年と言う短い人生をだからでしょうか。ですが、敢えて言うならばもっと勉強して可能性を広げたいと言うことです。具体的には大学院に行って専門分野である教育を深く学び、それを日本の教育に還元したいです。偉そうなことを言っていますが、自分にはそれができる能力と責任があると思っています。必要なのは学びのチャンスを得られるかどうかなのです。今は独り身ではないし、妻は専業主婦で頼るわけにはいきません。私自身、まだまだインターナショナルスクールの教員として半人前。そんな状況で大学院に進む余裕はありません。が、37歳で死んだとして、やり残して後悔することと言えばこれくらいでしょうか。

サッカーでは27歳の時に海外でプロサッカー選手になり、ほぼ限界までやり切りました。だから後悔はありません。しかし教員歴は10年程度あっても、まだまた42.195kmの折り返し地点に到着した程度です。

結局、死ぬことを考えると死ねない理由しか出てきませんでした。死にたくても死ねない。そんな矛盾の中で生きる37歳、しばらくは頑張らないといけないなと気付きました。

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