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体罰をなくすための解決策

熊本の秀岳館高校サッカー部で起きた体罰事件。これについて書きたいと思います。


●時代の変わり目
昔のような力による支配が許されなくなっています。まだまだメディアには当時の武勇伝を意気揚々と語るアスリートが出てきます。彼ら/彼女らにとっては”それ”が今の自分を作ってくれた礎となっていると自負しているのでしょう。私も体育会出身ですし、体罰や理不尽な指導を受けて育ってきました。とんでもなく苦しかったけど、今ではいい思い出です。


●規律教育と対話教育
冒頭で述べた通り、時代の変わり目なのです。昭和、平成の教育論は令和では通用しません。この前提の元で考えていきたいと思います。何がこの両者で違うのか。一言で言うなれば、昭和、平成は規律教育、令和は対話教育。簡単に説明すると、規律教育とはルールが絶対でそれに従わないものは悪。ルールをしっかり遂行する人間が偉い。問題はルールの善悪はあまり重要視されないということ。対話教育とは基本的なルールありつつも、そのルールさえも必要であれば見直したり、生徒の素直な思考や判断を尊敬していくこと。前者では指導者は絶対的な権力者となります。後者では指導者はオーガナイザー、つまり仕掛け人のような役割を担います。 


理想を追い求めたら勝てないという現実
選手は勝ちたい、勝つためには理不尽な指導を受けても良い。強くなりたい。強くなるには苦しさにも耐えないといけない。このように考えている選手はまだまだ大勢いるはずです。特に全国大会には出れないけど、都道府県でベスト8前後のチームでしょう。そういうチームは10年に1度くらいは奇跡的に全国に出れたりします。その時に苦しい練習を繰り返した。だから勝てた。このような論理が指導者やチームに存在しているのでしょう。現実問題を言えば、このようなチームが強豪校に勝つためには、ある意味”メンタル”か”体力”で上回るしかないのです。なので、このような中強豪校が勝つためには、現状、仕方がない指導方法なのです。今回の秀岳館もそうですが、常にギリギリのところでの指導をしないければならないのです。    

ハード面のアップローチ
理想的な指導、教育に移行していくためにはハード面からのアップローチが必要だと考えます。ソフト面、いわゆる指導方法、こういったことは正解不正解がよくわからない現状です。しかし、ハード面の効果は比較的わかりやすいのではないでしょうか。

●部員数が多いチームほど、問題が起きるという説

まず、体罰や理不尽な指導が行われる要因として、部員数に問題があると考えます。今回の熊本の秀岳館のケースもそうですが、部員が多いチームは問題が起きやすい。部員の数に比べて指導者の数が足りないし、環境もない。これでは全員にまともな指導を提供できるわけがない。まともな指導を受けられない生徒はストレスが溜まり、規律を破ったり、非行に走る。朱に交われば赤くなる。悪い生徒が一人二人いれば、そっちになびかれる生徒が一定数表れるのは自然の原理です。それを体罰や理不尽な罰で抑え付け、対応する。このような負のサイクルが生じてしまいます。このシステムにおいて得をするのは実質、学校だけでしょう。生徒数を確保するという視点で考えれば多いに越したことはありません。サッカー部、野球部に数百人ずつ集めれば、それで学校運営していけますから。 

●解決策① 〜部員数の上限〜 

学校運営と部活は切り離して考えるとして。まずは各部活の適正登録人数をルール化することです。例えばサッカー部であれば40-50人。が妥当だと思います。この人数であれば、指導者が3人ほどいれば十分でしょう。こうすれば、先ほど述べた、規律教育と対話教育の両方の良さを活かした指導が可能なのではないでしょうか。体罰の問題が起きるのは、ほとんどが100人以上部員を抱える大所帯チームです。高校生といえどまだ未成年。自分の感情をコントロールするのは難しい年代です。部活が教育の一環なら、そのような子どもたちをしっかりと見てあげるのが大人の責任でしょう。

●解決策②    〜監査の義務化〜             

学校は各部活動に対し、定期的な監査をし、生徒からアンケートやヒアリングを行う。その結果をサッカー協会、教育委員会等に提出すること義務化。さらにサッカー協会、教育委員会から抜き打ち訪問し、監査をうける。この監査により、問題が発覚すればペナルティー等を与える。問題が数年間続けてなければ「適切な指導をしている」として学校や個人単位で表彰される。       

メディアの役割 

秀岳館のケースですが。メディアはすぐに表に出てきた問題にしか報道しない。だから何も解決しないのです。誰も本質を探ろうとしない。確かに、体罰をしたコーチやそれを隠蔽しようとした学校や監督は悪い。そもそもの原因を作った生徒たちも悪いかもしれない。ですが、そこを議論するのはメディアや我々の役割ではなく、学校や親の役割。メディアが面白おかしく国民感情を仰ぎたいのはわかりますが、もっと専門的な立場から分析しないと、単なる公共の場で名の知れたおばさん、おじさんが愚痴を言うだけで何も産まない時間となっています。一般人ができることを、あなた方はテレビでやっているのです。







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