朗読劇『ハックルベリーにさよならを』


はじめに

J-VOICE PJT 第4回公演「ハックルベリーにさよならを」全5公演が終了した。朗読劇を観るのは初めてだったので、正直少し緊張しながらの鑑賞であったが、見るたびに新しい発見もあり、とても良い経験となった。

菊地創氏の演出のもと、見事な構成のシナリオ、個性豊かなキャストによる非常に素晴らしい演技が相まって、とても素敵な朗読劇となっていた。誰にでも胸を張っておすすめできる作品だと思う。

ただ正直、僕はこの作品でここまで心が揺さぶられたことに対して、少し戸惑っている。いや、というよりだいぶ戸惑っている。最後の公演中、演技を見ながらもずっと、頭の片隅で色々な考えが浮かんでは消えた。どうしてこの作品を観て、僕は泣いてしまうのだろう、どうしてこんなに切ないのだろう。

たぶんこの作品に対して、少し客観的な距離を取っておかないと、このままズルズルと引きずってしまいそうな予感がする。なので、あえて少し俯瞰してこの作品を振り返ってみようと思い、パソコンのキーを打ち始めた。とても野暮なことだと分かっているが、お許しいただきたい。

◆あらすじ

ケンジは小学6年で、母さんと二人暮らし。父さんは別の町に住んでいて、月に一度の面会日にしか会えない。父さんは別の町に住んでいて、月に一度の面会日にしか会えない。家庭教師のコーキチくんは、カヌーが大好きで、その影響で、ケンジも大好きになった。が、母さんは危ないと言って、乗ることを許してくれない。今日は面会日。ケンジは父さんのマンションへ行く。近くの池でボートに乗るのを楽しみにして。ところが、父さんの部屋には、カオルと名乗る女性がいた…。


「ボク」の中で俯いていた「ケンジ」

この朗読劇は見る人によって、色々な捉え方があると思う。決して難解なストーリーという程でもないはずなのだが、解釈のディティールがきっと人によって異なっていて、そのあたりが本当に秀逸な脚本だと感じる。

この作品は「ボク」の独白から始まる。「ボク」は一人の女性に電話をかけ続け、その祈りが届く日を待っている。そして「ケンジ」の物語が始まっていく。そんな出だしである。

この作品は「ケンジ(10年前のボク)」の当時の出来事を劇にしていて、その時の後悔や葛藤を振り返り、それを乗り越えて「ボク」が一つの決意をする、というような構造になっている。

色々な解釈があることは前提の上、僕が感じた解釈を書かせてもらえれば、これは「ボク」の自問自答の物語だ。あの「ケンジ」の物語はきっと本当にあったことなんだろうけれども、その当時を演じた舞台ではなく、あくまで”「ボク」が何度も思い返す10年前の記憶"を演じた舞台なのだろう。

演出上、「ケンジ」が二重人格のようにも見受けられる描写があるが、実際に当時の「ケンジ」の中に「ボク」がいたとはあまり考えられない。この辺はまぁあんまり書かなくても、そう思っていた人も多いと思う。

つまり、今の「ボク」の中に「ケンジ」がいるのだ。そういう意味でも、この物語は「ボク」主軸のストーリーであると感じる。「ボク」は「ケンジ」に語りかけながら、その言葉を自分にぶつけているのだ。

この「ケンジ」の物語を思い返している「ボク」のことを考えると本当に胸が切なくなる。彼はきっと何度も何度も思い返して、当時の自分を見ていたのだろう。終盤ボートの上で「ケンジ」がカオルさんと電話するシーンで、「ボク」は「ケンジ」に対して「何か言えよ…!」と感情をぶつける。きっとこういうことを10年間繰り返してきたのだ。

昨日の自分を責めて、1ヶ月前の自分を責めて、1年前の自分を責めて。そういうことを繰り返すうちに「ケンジ」はあの頃のまま固定されて、10年間「ボク」の中でいつまでも俯いていたのだと思う。ある意味では、「ボク」は当時の後悔や悩みを自分から切り離して「ケンジ」に押し付けてきたのだ。

だからこそ、終盤で「ボク」がカオルさんと10年振りに会話した後の展開は本当に胸が詰まるものがある。実際に「ボク」の電話がカオルさんに繋がったのかどうかは、見る人によって解釈が違うと思うが、もうこの際どうでもいい。

仮にあれが全て妄想だったとしても、カオルさんに「ボク」がきちんと想いを伝えられたこと、カオルさんがそれでも結論を変えなかったこと、それでも「自分を許してあげよう」と思えたこと、これは「ボク」が成長できた証だし、見える世界が広がったということだと思う。

その後、ボートを降りた「ケンジ」から帽子を受け取り、「ボク」と「ケンジ」はお別れする。「ケンジ」は舞台から去り、残された「ボク」はその体と「ケンジ」からもらった帽子で、砂を受け止める。そして止まっていた時計は動き始める。このシーンは何て美しいんだろう。

この終盤の美しさに毎回目頭が熱くなってしまった。「ケンジ」は帽子を脱ぐとき「僕にも少し小さくなってきたんだ」と言っていた。「ケンジ」の止まっていた時間が動き出したことによる、細やかな予感を描写する、素敵なセリフだと思う。きっとあの帽子は「ボク」をしっかり支え続けるだろう。決して大きくは無い帽子だけど、きっと。

結局「ボク」が振り返り、悔やみ続けた過去は何も変わってないし、「ボク」は一人で歩いていかないといけない。それでもやっぱりあのラストシーンは暖かい希望に満ちていた。「できるかな?」と問いかけた「ケンジ」に、「ボク」は「できるさ!」と答える。それはきっと「ケンジ」に向けた言葉でもあり、「ボク」に向けての言葉でもあるのだ。

ここから少し余談に入る。Twitterのタイムラインで見かけて共感したのだが、楠田亜衣奈が演じる「ケンジ」が最後に舞台を降りるとき、観客席の横を通っていくのだが、それもで多くの人が舞台を真っ直ぐ見ていた。普段のイベントならありえないと思うのだけど、あの瞬間、楠田亜衣奈という存在より、この舞台に目を奪われていたのだ。こんなこというと、舞台やお芝居を愛する人に怒られてしまうかと思うが、オタクにとってはこれって相当すごいことなんじゃないの?と思ってしまう。それだけ演者の演技の迫力にのめり込んだということだ。特に終盤の相葉さんと楠田さんの演技は、それだけのパワーを持っていた。

公演中、1度だけ自分の真横を楠田さんが通ったので、その表情をじっと見ていた。あのときの表情は、楠田亜衣奈ではなくちゃんと「ケンジ」だった。演技の世界の人から見れば当たり前なのかもしれないけれども、僕にとっては妙に印象的で、感動させられることだったので、書き残しておこうと思う。


一人乗りのカヌーへの憧れ

この朗読劇で切ない点がもう一つ、登場人物がみんな優しいのに、みんな少しずつすれ違っているということだ。

お父さんはケンジのためにカオルさんを諦めることを決め

お母さんはケンジがいればいいと、お父さんとカオルさんの幸せを願う

そしてカオルさんはケンジのために、お父さんとの幸せを諦めて

ケンジはそんなみんなの優しさを受けながら、その中で大きな後悔をすることとなる。

それが本当に切なくて、どうにも心を締め付けられてしまう。

この作品で、「ケンジ」の両親は離婚し、別々に暮らしている。「ケンジ」は母さんと暮らしていて、月に1回だけお父さんの暮らすアパートに遊びに行く。離婚の詳細は作中では語られないが、決してどちらかが一方的に悪いという性質のものではなかったのだろう。

しかし2人が離れ離れになってしまったことは、少年にとってはやはりとてつもなく大きな出来事だし、爪痕を残したのだと思う。

「ケンジ」は、お父さんもお母さんも大好きだ。劇中、お父さんと楽しい時間を過ごせば過ごすほど、お母さんに罪悪感を覚える、というセリフがある。両親をそれぞれ愛するあまり、その狭間での葛藤が「ケンジ」の心には根付いている。

「ケンジ」は何だかんだ、とても良い子だ。お父さんに出て行かれて、一人になってしまったお母さんをとても気遣っている。でもそれはどこかで「自分はお母さんを支えなくてはいけない、良い子でいなくてはいけない」といった気負いのようなものもあったのだと思う。だからお母さん以外の人と幸せになろうになる父親に対して、どうしても素直に祝福が出来なかった。

そしてカオルさんの存在だ。「ケンジ」はカオルさんのことを嫌いになれなかった。お母さん思いの「ケンジ」は、お父さんとカオルさんが結婚することが許せなかったはずなのに、カオルさんのことを嫌いになれなかった。これが恋だったのか、そして10年後の「ボク」がどんな気持ちでカオルさんに電話をしていたのか、このあたりはフォロワーさんが考察していて、ふむふむなるほどなぁと思っていたりする。

「ケンジ」はこんな風に好きな人たちの間で、苦悩する。全員が好き故に、誰の幸せを願えばいいのか迷ってしまう。そしてその末に「ひとりになりたい」と思うようになってしまう。そんな気持ちのズレが大きくなってきっと「ボク」に繋がっていく。

途中、「ボク」と「ケンジ」の会話で、全員一緒に暮らしてしまえたらどんなに楽しいだろうというのを想像するシーンがあるが、あの想像の中にいるときの2人の笑顔と、その後の「僕のカヌーには一人しか乗れないんだ」という叫びと悲痛な顔が「ケンジ」の苦悩をよく表していて、何回見ても胸が苦しくなった。


ハックルベリーが感じた衝動の先に

タイトルに使われているハックルベリーという言葉、これはおそらくマーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』が元だろう。この作品をご存知ない方でも『トム・ソーヤーの冒険』という作品は耳にしたことがあるのではないだろうか?『ハックルベリー・フィンの冒険』は一応、その続編のような立ち位置にある作品だ。

主人公のハックルベリー・フィンはトム・ソーヤーの友人で、身寄りの無い貧しい浮浪児だった。しかし『トム・ソーヤーの冒険』でトムと一緒に金銀財宝を見つけたことで、長い間行方不明だった父親がそれを聞きつけて帰ってきた。

乱暴者で酒乱の父親。ハックはこの父親から逃げ出そうとして物語が始まる。そして途中、黒人奴隷のジムと出会う。ジムもまた、奴隷制の無い自由州へと逃げ出そうとしていた。彼らは今の環境から逃げ、新しい場所に向かうためにいかだに乗り、ミシシッピ川を下る。当時は奴隷を盗み出すことは「窃盗」扱いだった。2人の川下り、それは冒険というにはあまりにも現実的な辛さと、苦悩が伴う旅だった。当時の人種差別を背景に、ハックとジムが新しい世界を目指し、悩みながらも川を進んでいく。『ハックルベリー・フィンの冒険』はそんな作品だ。

僕はこの『ハックルベリー・フィンの冒険』が子どもの頃代好きで、何度も読み返した記憶がある。『トム・ソーヤーの冒険』のようにワクワクするシーンだけではなく、どちらかというと地味で辛いシーンも多かったのに、この作品に引き込まれた。

トム・ソーヤーが「ロマン」を求めて冒険していた前作と違い、ハックの冒険はひどく現実的な重みを持っており、それはロマンなんかではなく、生活の一部というか、人生を生き抜くために必要なものであった。「自由を得るためのキラキラした素敵な冒険」というものよりは、もう少しズシリとした重みを残すものだ。

ハックルベリー・フィンを突き動かしたのは、決してロマンや夢では無い。今いる現実から逃げ出して、新しい現実にたどり着きたい、そんな衝動が彼を突き動かしていた。そこに僕は強く惹かれたのかもしれない。

今回の朗読劇『ハックルベリーにさよならを』で、「ケンジ」は終盤、衝動的にボートに乗り込み、神田川を下り始める。それは普通の少年が持つ「カヌーに乗ってみたい!」というような気持ちとは少し違っていて、もっと現実的な重みを持った衝動に突き動かされていたのだろう。

劇中「ぼくは一人になりたいんだ」というセリフが何度も出てくるが、「ケンジ」は自分を取り巻くいろんな人たちとの関係から逃げ出して、一人の世界に逃げ出したくてボートに乗った。しかしそんな冒険の中で「ケンジ」は結局、自分を取り巻く人たちと、痛々しいほどに向き合うことになる。

「ボク」が「ケンジ」とさよならをしたことで、もう「ボク」はボートに乗ることはないだろう。でもそれはつまり、「ボク」がこの世界で誰かと生きて行くという覚悟ができたということなのだと思う。ハックルベリーのような衝動を超えて、「ボク」は自分の道を歩いていくのだと思う。カヌーは楽しむことが一番だから、歩いてもいいのだ。しっかりと歩いていけばいいのだ。


おわりに

朗読劇「ハックルベリーにさよならを」をさくっと振り返ろうと思ったら、結果的にダラダラ書いてしまって反省している。でもこうやって文字にしておけば、きっと数年後に読み返したときに懐かしい気持ちになるはずだと信じている。

とにかくこの朗読劇はとても素敵な作品だったし、自分の好きな声優さんがこの作品に関われてよかったなぁと思う。また再演するときがあれば、そのときは必ず見に行きたい。きっと今よりもう少し、この物語を深く感じられるのではないかと思っている。

最後に、少年の楠田亜衣奈さんは死ぬほど可愛かった。本当に底知れぬほど魅力爆発してて、最初の公演で登場してスポットライトに照らされたとき、頭がクラクラするくらい素敵だった。あの美しい光景を見たということを、ここに書き残しておきたいと思う。本当にありがとうございました。

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