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『紫式部日記』紫式部、角川ソフィア文庫

 『御堂関白日記』に続き、角川のビギナーズ・クラシックス(日本の古典)で読みました。

 全2巻で1巻は記録的内容。2巻は手紙と女房たちへの批評を中心とした記録的内容の「消息文」と言われる内容となっています(文末には「ございます」にあたる「侍り」を多用)。このため、後半は日記部分が筆写される中で、書簡などがまぎれこんだのではないかという説もあるようで、なるほどな、と。

 道長の要請で書かれたというのが定説のようで、あまり納得もいかないというか、よくわからないのですが、無知なままの日本古代史の興味がさらにかき立てられました。

 日記が書き始められた頃は長徳の政変(九九六年)から十二年が過ぎているのですが、定子後宮の華やかさの記憶は残り、道長家長女の彰子後宮との比較に興味津々だったことが日記からもうかがえます。

 さらに、日記に記録されている一条天皇からの勅使として参上した蔵人の少将道雅とは、定子の兄・藤原伊周の十七歳になる息子で、没落したとはいえ、一条天皇の定子への思いはつよく、まだ、中関白家も復活しようとしていたのかもしれません(道雅は花山法皇の皇女を殺した疑いや喧嘩沙汰で没落を決定付けるのですが)。

 とにかく日記部分は、藤原道長の長女で一条天皇の中宮となった彰子の2度の皇子出産や祝賀の様子を中心に、時の権力者や平安貴族の様子を生き生きと描いています。さらにその中で道長の人物像が浮かび上がり、政治的影響力だけでなく、文化人としての側面も持ち合わせていたことがわかります。

 《紫式部は、それぞれの立場の人々の、その立場を象徴するような姿を的確にとらえて書き留めています。彼女の眼ははっきりと政治を見極め、その中で様々の思惑を抱く人々を見ている》という解説はなるほどな、と(k.840、kはkindle番号)。

 よくよく考えてみれば、道長のように外戚として権力を振るうためには、《まず娘を持たなくてはならず、次にはその娘と天皇の年恰好が合わなくてはならず、入内の後には娘が天皇に寵愛されなくてはならず、さらに子供が、それも男子が生まれないとなりません。当然達成できるケースは非常にまれで、良房以降は道長の父・兼家がそれを成し遂げるまで百二十年間、摂政は何人もいたものの「外祖父摂政」は世に現れませんでした。道長は父に続いてその座に就くことを目指しているのです》(k.856)とのこと。

 道長主催の一条天皇と彰子の子の誕生パーティーで、道長は「紙」を賭けてスゴロクに興じる場面が描かれているのですが、「紙」は貴重品だったんだな、と『光る君へ』の枕草子誕生の場面に思いを馳せました。

《『源氏物語』「若菜 上」の中にも、東宮に嫁いだ光源氏の娘、のちの明石の中宮が里帰りして男子を産み、光源氏が孫の顔を覗きに来る場面があります。「若宮はおどろき給へりや? 時の間も恋しきわざなりけり(若宮はお目覚めかな? 束の間でも会いたくてならないものだなあ)」というせりふはすっかり御爺さん。そこにはまた、明石の中宮の養母である紫の上の、赤ちゃんを抱いて離さず、この場面の道長のように衣をしょっちゅう濡らしては着替えるという溺愛ぶりも、ユーモラスに描かれています》(k.1173)というあたりも興味深かったたし、紫式部は『遊仙窟』を典拠に「若紫」の巻を書いており、漢文に通じていた公任との機知にあふれる会話も残されています。

 紫式部の生まれ育った家は道長の正妻・倫子の土御門殿とは東京極通りを隔ててすぐ向かいだったのか、とか興味は尽きません。

 出産のため里下がりしていた彰子のいる道長邸に、一条天皇は御所焼失の後の倹約を示すために、薄着で御幸するのですが、祝いの席で酔っ払う公達の中、実資は女房どもの衣の枚数を数えてちゃんと倹約しているかどうか調査したというあたり、実に実資らしいと感服。

 勢いにまかせて実資の『小右記』にも手をだそうかな…。

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