『日本の医者』中井久夫、日本評論社

 大きく影響を受けて、集中的に読んだり、新著が出れば必ず目を通していた方はヘーゲル、マルクス、ヴィトゲンシュタイン、丸山眞男などの古典を除けば吉本隆明、網野善彦、長谷川宏と中井久夫さんでしょうか。

 改めて自分の読書の記録をさかのぼるという意味も含めて振り返ってみたいと思います。

 中井久夫さんからは『論理哲学論考(Tractatus Logico-Philosophicus)』を読み「世界は(物質ではなく)事実からなる」という冒頭を「世界をモノの集合と理解する以外の見方がありうることに感動した」というあたりも、含めて、本当に様々なモノの見方を教えてもらったな、と。

『日本の医者』中井久夫、日本評論社

 『日本の医者』は中井久夫さんが若かりし時に楡林達夫のペンネームで三一書房から上梓して、日本の医学界の問題点は医局支配にある、とほぼ初めて言及した本だと言われています。それがほぼ50年ぶりに、新しく日本評論社の「こころの科学叢書」に治められました。

 この本(共著)を出したため、京大ウイルス研究所のボスから「二度とモノを書くな」と言われ、それでも、岡山大学医学部の自治会の求めに応じて『抵抗的医師とは何か』を書き、それがパンフレットとして出回ると遂には研究室から破門されるという、自身が『日本の医者』で書いた医局支配を地でいくような制裁も受けることになります。

 しかし、《助手という地位を差し出すというと、京大ウイルス研究所はにわかに好意的になって、臨床なら要るでしょうから、と学位を出すといい、私は未発表のデータをまとめ、岩波から出ていた『生物科学』に投稿》して博士号を取得。その後、『日本の医者』を読んでわざわざ下宿まで訪ねてくれた近藤廉治さんという精神科の医師の紹介で東大医学部附属病院分院で精神科に転向したという「あとがき」に書かれた顛末は、『日本の医者』と『抵抗的医師とは何か』を読んだ人にとっての大きなオマケでしょう。

 この「あとがき」では《日本人は憑き物が落ちたように変わる》という言葉と、制度としての医局は批判してきたけれども情報交換などの「医師の溜り場」としては外国の医師がうらやむような機能もあるという言葉が印象的でした。

 今現在、どうなっているかは知りませんが、『日本の医者』の書かれた1963年当時、勤務医の八割から九割の人事は医局の教授が握り(p.6)、完全に独立を保っているのは《旧七帝大、慶応大医学部と二、三の医科大学》で、他の大学の教授陣の供給源は主に旧七帝大だったそうです(p.9)。このため、内科と外科が別々の大学の系列に属していると、戦前の陸軍と海軍の対立状態になることもあったとか(p.11)。

 また、大学医学部の教授は政治的ボス支配に時間をとられる上に研究・教育・実践もこなさなければならず、研究業績も集団で得るという性格が強いため、職業的研究者が生まれにくいという弊害もあるそうです(p.30)。俗な感想になりますが、これなんかは日本人のノーベル医学生理賞受賞者が意外と少ないという原因なのかもしれません(当時)。とにかく、医学博士号の乱発ぶりと審査の甘さにはあきれかえるばかりです(p.28-)。

 旧帝大医学部による系列づくりといいますか「帝国づくり」のすさまじさとしては、京大が旧満州に築きあげたものが有名らしいのですが、その副産物として石井軍医中将の指揮する細菌戦部隊なども生んだという話は初めて聞きましたかね(p.56)。

 この後、世界と日本の医学史みたいな話になっていくのですが、全身麻酔、肝臓の濾過機能の発見、子宮内胎児の姿勢の正しい認識などは、江戸時代の町医者によってヨーロッパに先駆けていた、とのこと(p.49)。

 『抵抗的医師とは何か』では、教授が正常妊娠子宮を子宮筋腫と誤診したため、その弟子が真実を知りつつ全摘出を行ったという例をあげて医局の制度を批判しています(p.106)。この話が深刻だなと感じたのは、こんな場合は患者をそっと呼んで「ベッドが混んでいるから」と耳うちして正しい診断を受けるチャンスを与えるという"他大学への逃がし"のテクニックまで書いてあること(p.108)。けっこう、こうした事例というのはあったんでしょうね…。

 当時、世界的にみて、最も多かったのはマラリアだそうでして、アフリカ系黒人にはマラリアの源虫は育ちにくいものの貧血障害を起こす「鎌状赤血球症」の割合が20%を超している、なんていう話も興味深かったです(p.47、p.148)。

 医師の最も大きな役割として「予後」を判定することをあげているあたりも、なるほどな、と…。病気は自然治癒力に頼る部分が多いということを考えあわせると、患者の不安を鎮めることが大きな役目だというあたりは、後の精神分析医としての著作にも通じるんじゃないかな、と素人なりに感じました(p.159)。

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