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『草原の制覇 シリーズ中国の歴史3』古松崇志、岩波新書

 やっと飲み終えたというか苦労しました。騎馬民族の歴史について、あまり知らなかったわけで、いちいち、確認しながら読んでいったので、思ったより時間がかかりました。

 狩猟・放牧と農耕が可能なユーラシアのベルト地帯から多くの遊牧国家が勃興し、大きな勢力となったら南下して中原を支配する、という見方の方が、漢民族が中原を3000年間支配したという見方よりも現実的なんだろうな、と改めて思います。

 しかも、モンゴル帝国の出現によってこのベルトはヨーロッパまでつながり、それによって知識や技術が融合する、と。いま「鉄の道」の研究が進んでいますが、トルコから東西に分かれた鉄の道は、東は列島まで到達し、西はヨーロッパをつくったわけですが、モンゴルによって「鉄の道」が再びつながり、それまで別々に進展していた知見も融合された、みたいな感じでしょうか。

 中共が進めようとしている一帯一路も、元はといえば遊牧国家が実現していたもの。当時、漢民族は家臣として遊牧民が建てた王朝に仕えていただけという図式を隠蔽したというか、西洋と遊牧民に対するコンプレックスの裏返しなのかも。

 また、日本史も中原、半島の歴史だけをみた理解はありえなくなるかも。中国はもとより半島との関わりを考えないと、列島の歴史を動かす要因は見えてこないというのは常識でしょうが、さらにヨーロッパまで横断可能は機動力と戦闘力を持つ草原の騎馬民族の興亡史が背景にない各国史は意味なくなるかも(それにしても、モンゴルはたいてい脅して「酷い目に遭いたくなかったらていこうやめたら?」という宣伝がうまくいってユーラシアを席巻できたと言われていますけど、なんでも日本に攻め込もうとおもったんでしょう…陸続きでもないのに)。

 とにかく第1章の「拓跋(タブガチ)とチュルク」から知らなかったというか明確になったことばかり。

 隋唐は騎馬民族出自の皇帝だとは知っていたけど、もう少しちゃんと北部の遊牧王朝の興亡史との連携で捉えれば、中国の歴史で漢民族が支配する王朝は漢と宋、明だけで後はほとんど北方の騎馬民族の支配だったな、と。

 騎馬民族出自の皇帝が秦・漢以来の中央集権制度をうまく使い、中原以南の農民を抑えるという図式は、以前から理解できてはいたけど、北方から見たら、強くなった騎馬民族が草原を統一し、中原の王朝が弱体化したとみるや素早く侵攻して王朝を立てるという歴史が中国の歴史なのかも。

 さらにいえば、易姓革命説は漢民族よりも、遊牧王朝にとってありがたかったのかもしれない。習近平の「中国の夢」のどこがダメかというと、そうした視点がないところなのもしれないな、とか。

 話しを本に戻しますと、匈奴亡き後のモンゴル高原では鮮卑と呼ばれる新たな遊牧王朝が勃興した、と。鮮卑の中核部隊は、匈奴と並立した東方の遊牧民東胡の後裔と考えられ、もともとは大興安嶺南部にあって匈奴に服属していた遊牧集団。檀石槐が統合したあと、モンゴル高原を中心とする草原地帯は混乱期に入るが、四世紀華北の混乱を収束に導いたのは鮮卑拓跋部の立てた北魏だった、と。

 北魏政権の中核は想定以上に遊牧王朝としての性格が強かった。魏書に載っていない「可寒」「可敦」と言う鮮卑語で君主とその妃を意味する言葉が用いられたことが洞窟に刻まれた文字からわかっている。河寒と言う鮮卑語で君主とその妃を意味する言葉が用いられていた、と。

 北魏皇帝は季節移動し、平城北部の鹿苑という土地は貢納として受け取った家畜の再配分の場所で、遊牧民には賜与として与え、農民には牛を農地開発用に投入するなど、二つの生業の濃さを象徴する空間だった。北魏は平城郊外に雲崗石窟も造営したというのはなるほどな、と。

 北魏には北方の柔然に備え六鎮を置いたが、不満を持った六鎮の乱がその後のユーラシア東方の歴史に及ぼした影響は甚大に。まず高歓が実権を握り次に匈奴系の軍人である宇文泰が支配者となる。宇文泰は長安で西魏の実質的な建国者となったが、隋の楊氏、唐の李氏は同じ武川鎮出身で西魏の建国に参画していたそうです。もっといえば北斉、北周、隋、唐はいずれも六鎮の部族集団に由来する騎馬遊牧民の軍事力を柱としていた、と。

 中央ユーラシアをそれまでにない規模で統合したのは突厥(チュルク)で、北斉と北周は東突厥を見方につけようと貢ぎ物を献じて属国となったほど。隋の統一で東突厥は一時、隋に服属したが、煬帝の高句麗遠征失敗で再び強大化。唐を建国した李淵も突厥の大可汗に臣従した小可汗だったが、鉄勒の反乱で滅亡。唐が突厥を滅ぼすと、太宗李世民をチュルク系遊牧民は天可汗(テングリ=カガン)の称号をたてまつった。これによって唐の皇帝は拓跋のカガンとして草原世界の遊牧民集団に君臨した、と。

 安史の乱を起こした安緑山はソグド人であり、ソグド人は漢語の姓を選んで名乗るようになったことが知られており、安はブハラ出身を意味するというのも知りませんでした。

 また、契丹は強大で長い歴史を持ち、北宋は敗戦による澶淵の盟(1004年)で契丹に銀・絹布を歳幣として納めるなど、下に立つわけです。しかし、この澶淵の盟は、盟約による和平という新しい段階をユーラシアにもたらした、と。

第1巻『中華の成立 唐代まで』渡辺信一郎
第2巻『江南の発展 南宋まで』丸橋充拓
第3巻『草原の制覇 大モンゴルまで』古松崇志
第4巻『陸海の交錯 明朝の興亡』檀上寛
第5巻『「中国」の形成 現代への展望』岡本隆司

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