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『冬の夢』スコット・フィッツジェラルド、村上春樹訳、中央公論新社

 自身の経験をもとにしながら、ファンタジーの繭にくるむのが村上春樹の小説だと思うのですが、あらかじめ希望を失って生きる生活の中で夢を追い求めるようになる主人公のキャラクターをフィッツジェラルドに学んだんだな、ということがこの翻訳から読み取れます。翻訳というのは最も深い読書とも言えるわけですが、フィッツジェラルドの作品の中ではフィンタジーの度合いが最も濃い『リッツくらい大きなダイアモンド』(The Diamond As Big As The Ritz)は、最も村上春樹のスタイルに近い作品なのかもしれません。

 フィッツジェラルドの描く夢は女性像に現れますが、だいたいは美しく金持ちだけれども世俗にまみれた生活を退屈とも考えずに送っている女性として描かれます。そして人見知りではなく、積極的で、出会った男は恋に落ちる、という設定なんですが、ボーイ・ミーツ・ガールは永遠の構造なので色あせません。

 『リッツくらい大きなダイアモンド』のヒロイン、キスミンの住む家は山全体がダイアモンドの原石の上につくられています。しかし、あまりにも巨大なダイアモンドは、もし市場に流出すれば値崩れを起こしてしまうので、世間には秘密にしなければならず、掘り起こすこともできないというジレンマを抱えることになります。

 これは金本位制度といいますか、当時はまだ実現されていなかった管理通貨制度の比喩にもなっています。豊かになったかもしれないけど身動きとれない、みたいな。

 以下は印象的なキスミンが登場するシーン。宝塚歌劇団の宙組が秋に上演するんですが、ヒロインとなる夢白あやさんのビジュアルが今から楽しみです。

"Hello," she cried softly, "I'm Kismine."
She was much more than that to John already. He advanced toward her, scarcely moving as he drew near lest he should tread on her bare toes.

 最初は旅行の途中で読む本がなくなってしまい、PDFで読んだのですが、いい加減に読み飛ばしていたな、と村上春樹さんの翻訳も読んで反省しました。

 フィッツジェラルドはアメリカの東部と地方の対比に触れるのが好きですが、この『リッツくらい大きなダイアモンド』でも南部と北部の違いを強調しています。しかし、物語全体がファンタジーなんで、主人公ジョンの生まれた街ヘイディスはギリシャ語の黄泉、入学した北部の寄宿舎付き学校はセント・マイダス校(ミダス王からきているから拝金校)と名づけられています。しかし、英語で読んでいる時には、こういうところを読み飛ばしていました。浅学非才を反省w

 『冬の夢』の主人公はフィッツジェラルドと同じミネソタ州出身。州立大学に進まず、東部の名門大学の門戸を叩いたのも、プリンストン大学に入った自分を投影しているんでしょう。予備将校訓練学校に入るのも同じ。そして妻ゼルダと同じようなタイプの女性をヒロインとして、その夏に始まり冬に終わる夢を描きます。北西部の冬は唐突に終わるが、春は何かしら心を滅入らせるものがある、という情景描写はフィッツジェラルドの心象風景なんでしょう。

 世俗的だけど美しい女性を一方的に崇拝し、軍隊生活の後に幻滅するというパターンはギャッツビーを予感させます。

 このほか『罪の赦し』では、聖体拝領の朝には水も飲めなかった戦前のカトリックの習慣に驚きました。

 そして特筆すべきは本の美しさ。

 軽い箱と装丁ですが、全体に淡いつくりで、見事に洗練されています。こんな本を出してみたいなと思わせる装丁は和田誠さん。

 箱は『冬の夢』の主人公が子ども頃にキャディーをつとめていたゴルフ場、クリームイエローのカバーにはリッツカールトンがイラストで描かれています。

 他の短編集もこの装丁でやってほしかった。

『冬の夢』
『メイデー』
『罪の赦し』
『リッツくらい大きなダイアモンド』
『ベイビー・パーティ』

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