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『小右記』藤原実資

『小右記』藤原実資、倉本一宏(編)、角川ソフィア文庫

『御堂関白記」『紫式部日記』に続き、『小右記』も読めました。ほんと、この時代の日記が読めるって素晴らしい!ぼくみたいな勉強の足りない人間にも読んだ気にさせてもらえる角川ソフィア文庫のビギナーズ・クラシック、感謝です!ということで『権記』も読み始めているのですが、今の世も、当時も変わらないんだな、と思って安心できます。実資には友達になりたくなかったかもしれないけど、いや、マジで良かったです。

 驚いたのは二点。

 道長の『御堂関白記』の漢文が小学生レベルとすれば、実資の『小右記』は大学生レベル。こんなに違うのか、と驚きました。一次資料を読むうちには入っていませんが、その雰囲気だけでも味わえるありがたさはこういうことを実感できるところだと思いますし、行成の『権記』も読んでみるかなと思ったのも、こういう実感を味わいたいから。

 《普通、天皇側近の蔵人頭を一、二年も勤めれば、参議に任じられて公卿の一員となる。ところが実資の場合、あまりの有能さや謹厳な勤務態度ゆえ、歴代の天皇が手放そうとせず、皇統が代わっても蔵人頭を辞めさせてもらえずに、八年間もこの地位にあったのである(これは六年間勤めた藤原行成も同様)》ということですから、実資と行成は性格が似ていたのかもしれませんし、几帳面だから日記も高く評価されて残っているのかもしれないな、と(k.1577、kはkindle番号)。また、日記というのは《父祖の日記を所有している貴族は、政務や儀式の遂行に際して、圧倒的に有利なのであった。しかもそれを誰には見せて誰には見せないと選ぶとなると、人間関係の構築にもつながる。『清慎公記』を所有する実資の強味は、そういった点にもあったのである》という強いツールだったんだな、と(k.2808)。

 もうひとつは、73歳となった実資が、道長亡き後に関白となった38歳の頼通と抱き合って寝て、「玉茎、木のごとし」となった夢を見て恥ずかしくなったと日記に書いている長元2年(1029年)の日記。太政大臣になりたいためには関白とも寝る覚悟というか、すごいな、と。武士の世界でも男色は隆盛を極めるわけですが、平安貴族でも、こんなことは当たり前だったんでしょうか。まあ、源氏物語でも世界初?のBL描写があるから、ファンタジーではなく、世間に認知された色事だったんだろうな、とか。にしても、自分の子孫に読ませて勉強させるための日記にこんなことを書くなんて、凄い、凄すぎるというか、日本の文化の奥深さ、素晴らしさには驚かされます。原文は以下の通り《今暁、夢想す。清涼殿の東廂に、関白、下官と共に烏帽せずして、懐抱して臥す間、余の玉茎、木のごとし。着す所の白綿の衣、太だ凡なり。恥づかしと思ふ程に、夢、覚め了んぬ。若しくは大慶有るべきか》(k.22349)。

 《実資は、「賢人右府」として何と二十五年間、頼通の政権を支えながら、独自の地歩を築いていくこととなる。ただしこれが、小野宮家として最後の大臣》だったというのは少し、寂しいですが(k.16833)。

 もっとも《道長は十一月十日に重態となり、臥したまま汚穢(糞尿)を出すという状態となり、十三日には沐浴して念仏を始めるなど、極楽往生に向けた準備を始めた。この二十一日には危篤となり、ますます無力にして汚穢は無数、飲食は絶えた。また背中に腫物ができたが、医療を受けなかった。 後一条天皇の行幸も、今となっては悦ばないとのことで、訪ねてきた彰子と威子も、汚穢によって直接に見舞うことは難しい状況であった。道長ほどの権力者でも、最期の様子はこのようであった。世の無常を実感せざるを得ない》わけですが(k.20891)。

 このほか、実資は芋をさかなに飲み過ぎて二日酔いで参内しないことがあったと書いていますが、なんとフリーダムなことよ、と。当時の酒はドブロクで糖度が高く、道隆や道長のように糖尿病になったのかな、とか。《藤原道兼の粟田山荘で芋次と称する饗宴が開かれた。芋次というのは、芋(長芋か山芋)を賞味するついでに開かれる饗宴のこと。大納言藤原朝光が食物を準備したらしい。「二、三の卿相及び侍臣は淵酔して、深夜に及んだ」とある。陣定は通常、日が暮れてから開かれるから、よほど酒が残ったのであろう。当時の酒は現在のどぶろくをもっと薄くしたようなもので、アルコール度数は低いから、吞みすぎるとかえって後にひびいたようである。 なお、こんな糖質の高い酒を大量に吞んでいたものだから、当時の貴族の多くは糖尿病に苦しめられたものと思われる》というのが解説です(k.2379)。

 内裏で猫が子を産んだら、道長や詮子らが人間のようにお祝いの「産養(うぶやしない)」をしたことを批判する実資は痛快でした。ペット供養とか宗教側もカネに目をくらんで禽獣(禽獣)の飼い主目当てに商売する現代の世相にも、草場の陰できっと呆れ果てていることでしょう。「未だ禽獣に人の礼を用ゐるを聞かず」という言葉も痛快ですし、キレっきれ。

 《頼通の春日詣に際し、道長の命で殿上人や地下人のほとんどが扈従してしまい、一条天皇の食事の陪膳に奉仕する者がいなくなってしまった。「殿上の男等、皆、春日に参るか」「明日、又、陪膳、候ぜざるか」という一条の言葉は、むしろ悲惨にさえ響く。すでに一条の退位は道長の政治日程に上っており、一条に対する扱いにも変化が生じてきているのであろう》(k.8076)というあたりの政治も、現代の政治家にも通じるリアリイティを感じます。

 その後、天皇となった三条についても《実資としても、道長との関係を悪化させている三条から頼りにされても、ありがた迷惑なところだったであろう。 なお、三条を怒らせた道長の行動というのは、すでに死去している大納言藤原済時の女に過ぎない娍子を皇后に立てるという意向に対して、それを諫止し、四月二十七日と定められた娍子立后の儀に中宮の姸子(道長二女)の内裏参入をかち合わせることが知らされたことであろう》としており、実資もなかなか世渡り上手(k.8878)。

 《「越後守為時の女」、つまり紫式部であった。実資は、「この女を介して、前々にも雑事を皇太后宮に啓上させていた」と記しているが、紫式部は聞かれてもいない道長の病悩についても資平に語っている。よほどの信頼関係と見るべきであろう》と実資と紫式部の関係は良好だったようです(k.10965)。

 「刀伊の入寇」の《刀伊というのは高麗語で東夷に日本文字を当てたもので、もっぱら北方に境を接する東女真族のことを指していた》というのは知らなかった(k.15592)。

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