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『楽天の日々』古井由吉、キノブックス

 《記憶とは自分を相手にした八百長みたいなものだ》(空白の一日)

『楽天の日々』古井由吉、キノブックス

 デビュー当時は「内向の世代」の代表と言われた筆者が、老いをテーマとして書き始めたのは1992年の『楽天記』あたりからでしょうか。この前年に椎間板ヘルニアで2ヶ月間入院しています。

 《人は生涯がだんだんに詰まるにつれて、何かの折りに、境遇によっては自分がたどることになったかもしれない別の生涯を想って、ほんのつかのま、それに惹かれることがあるものらしい。かならずしも一生の後悔の念からではない。想うところの生涯も、現に自身が歩んできたのよりも、華々しいものとはかぎらない。むしろ何ということもない人の姿や情景を目にした時に、「生涯の郷愁」のごとき情は起こるという。これだけのことに生涯を尽くしたという無言の感慨に触れた、と想ったのだろう、この自分だって似たようなものなのに》(辻々で別れ別れて)

 みたいな老いの実感から人生を振り返るようなエッセイによく書くようになり、それと同時に幼児期に遭遇した東京大空襲のことをトラウマのように何回も触れたりしはじめたような印象を受けます。また、青年期にまだ死の病だった結核も古井さんの人生に長い影を投げかけているな、とも。

 そうした死の影を意識してきた人生を隠しているうちに病を得て、到達したのが「楽天」の境地なんでしょうか。

 《悲観に付くほどには、物事をきびしく見る人間ではない。楽天に付くほどには、腹のすわった人間でもない。いずれ中途半端に生きてきた。それでも、年を取るにつれて、楽天を自身に許すようになった》と本来の意味である「天ヲ楽シミテ、命ヲ知ル、故ニ憂ヘズ」という中国の古典にあるような境地には至らないまでも、と(「開店休業」のかなしみおかしみ)。

 『楽天記』新潮文庫解説には《僕は悲観論が大好きなのね(笑)悲観論をしまくるの。なぜかというと、どこかで楽天に転じる場面がある。現に書いているのは楽天だ。もう少し正しくいえば、今書いているという楽天をどうやって裏付けるか、それをやるには悲観論をしまくるに限る(笑)》とも語っておられるようですが。

 また、トラウマについて《古傷というものは心の内にもあり、その意味では誰しも脛に傷もつ身であり、この心の傷のほうは冬よりもむしろ春先の、寒さにこわばっていたからだのほぐれかかる頃になり、ふっと疼くのではないか》《これが間違いのもととなる》と書いてあるところにも唸りました(鳥は羽虫、人間は裸虫)。

ますかがみ そこなる影に むかひ居て
見る時にこそ 知らぬおきなに 逢ふここちすれ
『拾遺和歌集』旋頭歌

 について《鏡に向かって座り、そこに映る姿を見る時こそ、見知らぬ翁に逢う心地がすることだ、というほどの意味である》と解説するあたりの老いの実感も素晴らしい(知らぬ翁)。

 古井由吉さんは一年に一作のペースで本を出していて、申し訳ないけど小説はあまり読んでいないんですが、漱石の漢詩とかマラルメの訳詩とかエッセイは欠かさず読ませてもらっています。今回も年始の旅行に持っていき、豊かな時間を過ごすことができました。

 幕末から維新の頃に、日本人が西洋を訪れて、街の風景を墨筆でとらっと写していると、西洋人が感嘆の声をもらしたという、日本人には写実とは違った活写のたくみさがあるのか、というあたりも面白かった(写実という底知れなさ)。

 インドあたりの洪水は水と空ばかりになってしまう、というのも初めて知りました(水)。

 眼は恐怖を対象化するが、耳は受け身であり、恐怖に押し入られるままになる、というのもわかるな(耳の記憶と恐怖)。

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