『ロベスピエールとドリヴィエ』

『ロベスピエールとドリヴィエ』遅塚忠躬、東京大学出版会

 遅塚忠躬は日本におけるフランス革命史研究の第一人者だった研究者でしたが、門外漢としては『フランス革命 歴史における劇薬』岩波ジュニア新書で知った方でした。功成り名を遂げ、死期を悟った研究者が最後に上梓したのは、高校生などに向けた新書だったというのは感動的な話しですし、内容も素晴らしいものでした。

 今回、『ロベスピエールとドリヴィエ』を再読しようと思ったのは、宝塚歌劇団が11月から『ひかりふる路(みち) 革命家、マクシミリアン・ロベスピエール』を公演するから。ご存じの通り、ロベスピエールは浮いた話しのない人生を送っていて、大して詳しくはないのですが、明治維新の吉田松陰のようなアセクシャル(非性愛者)じゃないかと思っています。佐藤賢一『小説フランス革命』では 美少年で「革命の大天使」と呼ばれたサン=ジュストとの間にはワケがあったように描かれているようです。

 しかし、いくらなんでも、宝塚ではアセクシャルだったりBL的なロベスピエールを描けないだろうな、と思っていたのですが、『ロベスピエールとドリヴィエ』で、女の子っ気のない彼の生涯で唯一、女性の影が薄く差す場面がどっかにあったよな…と思って読み進めていたら、355頁の注にありました。そこでは、熱心な支持者であった指物師デュプレの娘エレオノールがトップ娘役の役になるのかな、なんてことを考えているうちに、読み直してしまいました。

 以前は必要な箇所を探すような読書が多かったけど、純粋読書を満喫する、みたいな。

 再読して革命無罪のゴッドファーザーはロベスピエールだと思うし、造反有理は田舎司祭ドリヴィエかな、と感じます。同時に革命無罪は政治的なものが先行し、造反有理は経済的な問題が契機になっているような気もしました。

 フランス革命は1791年に元貴族の革命派ミラボーが死去した後、ルイ16世一家がパリを脱出しようとして東部国境に近いヴァレンヌで逮捕され、いったんは憲法が制定され立憲君主制への移行始まったんですが、この1791体制はすぐに行き詰まります。

 簡単に整理すると内外の反革命勢力の脅威高まる→ブルジョワジーと民衆、農民の同盟を唱えたロベスピエールが山岳派独裁による徹底路線をとる→旧体制一掃→民衆や農民の要求を飲もうとしたロペピエールはテルミドールで葬られる→資本主義の発展に適合したブルジョワ革命は完成したが軍に頼る、みたいな。

 ロベスピエールは国王派など右派を潰滅させるとともに、農民革命の要素もあったフランス革命の急進派を抑えるという役割を果たしたんですが、反革命の右派の勢力を潰滅すると、今度はやりすぎたロベスピエールが「狡兎死して走狗烹らる」ことになるわけです。

 フランス革命はこうしたジグザグなコースを取りながら、最終的には「独占禁止・団結禁止型自由主義」のブルジョワ革命を達成したんですが、テルミドール以降も左右両翼からの攻撃に対して身を守るため、ブルジョワジーは結局、ナポレオンの軍事力に依存するほかなくなります。

 『ロベスピエールとドリヴィエ』を読んで、改めて思ったのが、ロベスピエールの山岳派の独裁以後、公教育、言語の統一が強力に進められた、ということ。こうした権力による民衆の世界の革命的解体は、全国的規模の市場に国民を編成するためで、それが後進資本主義国フランスにとって必要だった、と(p.264)。

 フランスやドイツはイギリスと比べて農業国の要素が強かったから、ブルジョワ革命を進めるためには、より中央集権的な政策が必要で、さらに遅れたロシアや日本などでは一党独裁を含めた独裁的な体制が必要だったんだろうな、と。

 あと、ジロンド派(穏健派)憲法も山岳派(急進=ロベスピエール派)憲法も六条の書きだし「自由とは、他人の諸権利を害しないことの一切をなしうる」という処までは一緒なんだな、というのは意外でした(p.280)。

 人権宣言の第4条も「自由は、他人を害しないすべてをなし得ることに存する。その結果各人の自然権の行使は、社会の他の構成員にこれら同種の権利の享有を確保すること以外の限界をもたない。これらの限界は、法によってのみ、規定することができる」と似たような表現なんですが、日本では戦後にGHQから与えられた人権なので「他人の自由を侵害しない限りの自由」というのは実感できないから、表現の自由なんかを勝手解釈にした反ヘイトスピーチの言い訳なんかがはびこるのかな、なんてことも思いました。

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