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『戦後日本政治史 占領期から「ネオ55年体制」まで』境家史郎

『戦後日本政治史 占領期から「ネオ55年体制」まで』境家史郎、中公新書

 著者の問題意識は、この新書本程度の《内容であっても「理解」している人はごく少ない》という認識の元、1990年代の改革の時代を経て、首相への権力集中は進んだものの、政権交代の可能性は少なくなった「ネオ55年体制」が完成したという大きなストーリーを提示することでしょうか。

 個人的には80年代後半から、「改革の時代」が始まる90年代以降は、職業としてもしっかりみてきたつもりですが、憲法九条と現実の防衛政策の整合性は小選挙区制下でも政党を分裂させることによって、自民党は漁夫の利を得て、逆説的に自民党の優位を支えてきた、という大きな流れの指摘にはハッとさせられました(p.291)。

 あと、クリアカットに問題点を整理する書き方は素晴らしいと感じましたので、以下、引用していきます。

 一言一句変更さたことのない日本国憲法は国民主権、平和主義、基本的人権の尊重を「ゲームのルール」とした(p.ii)

 《1945年10月初頭、内務省が政治犯の釈放を否定し、天皇・マッカーサー改憲について報じた新聞を発禁にすると、業を煮やしたGHQは事前通告もなく「人権宣言」を発し、内相以下、警察官僚4000人の罷免を発表》した(p.7)。

 コミンフォルムから平和革命路線を批判された《共産党は、主流の「所感派」(野坂参三、徳田球一ら)と、反主流派の「国際派」(宮本顕治ら)に内部分裂する。所感派は、コミンフォルムに反論する所感を発表したためにこう呼ばれたが、このグループも結局は批判を受け入れ、平和革命路線を放棄するに至る》(p.22)

 吉田時代の終わりは《吉田の自由主義的経済政策からの転換を目指した鳩山や岸が、それぞれ経済計画や社会保障政策の導入を試みた》(p.39)

 60年安保などの抗議運動は保守的な政治エリートに、占領政策の受け入れの必要性を認識させ、50年代までに形成された諸制度が、戦後政治という「ゲームのルール」として固定化されていった(p.50)。

 食糧管理制度によるコメの買取価格の毎年の上昇は勤労世帯と農家の所得・消費格差を縮小させるとともに、農村の自民党支配は盤石のものになった(p.59)。

 都市部における小規模商工業者に対する共産党の勢力浸透に対応し、田中内閣は1973年、中小企業が無担保無保証で政府系金融機関から低利の融資を受けられる制度(マル経融資)と大店法を成立させた(p.93-)。

 80-87年は、自ら生み出した政治課題を行政改革として争点化し、擬似政権交代で支持を回復するという戦後政治でも特に安定的な政権運営がなされた(p.123)。

 土井たか子が社会党の新委員長に選出された1986年は男女雇用機会均等法が施行された直後の時代だった(p.141)。

 公明党の右旋回は1979年の東京都知事選挙における鈴木俊一の推薦から(p.142)

福田首相の時代、米国の金融危機による株安が進行する中、日銀総裁が3週間も空席となってしまった(p.235)

目次
第1章 戦後憲法体制の形成
第2章 55年体制I 高度成長期の政治
第3章 55年体制II 安定政治期の政治
第4章 改革の時代
第5章 「再イデオロギー化」する日本政治
終章  「ネオ55年体制」の完成

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