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『権記』藤原行成、倉本一宏(編)

『権記』藤原行成、倉本一宏(編)角川ソフィア文庫ビギナーズ・クラシックス日本の古典

 7/21放送の『光る君へ』でも出家した定子に対する貴族の反発については、なんでそこまで嫌うの?と思うほど描かれていましたが、剃髪して出家したら、神事を行えないという問題があったのか、と改めて理解できました。

 行成は『権記』でも《中宮は正妃であるとはいっても、すでに出家されている。したがって神事を勤めない》(k.2579、kはkindle番号)と記しています。

 また、同じく道長が『御堂関白記』に付けた日記の一部を消しているシーンが描かれていましたが、これは《彰子の立后に逡巡していた一条は、道長に対してもストップをかけたのであろう。『御堂関白記』の長保二年正月十日条を記し始めた道長は、彰子立后勘申に関する部分のみを一生懸命に抹消している(倉本一宏『摂関政治と王朝貴族』)》ということだったんでしょう(k.2482)。

 『権記』を読んでみると《公卿社会に有力な血縁や姻戚を持っていない行成とすれば、道長に接近して厚遇を受けること、そしてその結果として昇進することだけが、名門たる家を存続させることのできるただ一つの途であった。藤原実資から「恪勤の上達部」(道長に追従する公卿)と揶揄されても、それは仕方のないことだったのである》という背景がよく分かります(k.30)。

 角川ソフィア文庫のビギナーズ・クラシックスで平安時代の日記を『御堂関白記』、『紫式部日記』、『小右記』、『権記』と読んできました。圧倒的に面白かったのは『小右記』でしたが、ぼくみたいな勉強の足りない人間にも読んだ気にさせてもらえる角川ソフィア文庫のビギナーズ・クラシック、感謝です!

 平安時代に貴族たちが日記を一生懸命、子孫たちのために残したのは、正史が絶え、儀式書も編纂されなくなってしまったからなのですが、そのため貴族たちは《翌日の儀式の前に、先祖の日記から先例を抜き出し、それを笏紙に書いて笏に貼り付け、当日に参考とすることができたのである。 違例を犯すと、それを指摘するために、弾指や咳唾といった行為が取られる。指を弾いたり、咳払いをしたり、唾を吐いたりされ、皆に(時には頤が外れるほど)笑われ、自邸に帰ってから日記に記録されるのであるから、平安貴族は大変なのであった》というのですから同情してしまいます(k.1674)。

 『光る君へ』では、晴明など陰陽師が占う場面がよく描かれていますが《晴明の占いの結果は「吉」であり、これを承けて、行成は修学院に出かけた。このように、陰陽師は顧客の望む結果を出すことが多いのである》というのはなるほどな、と(k.5175)。

 あと《当時は公卿の最高位は正二位と定まっており(道長嫡妻の源倫子は従一位だったが)、道長をはじめとする三大臣も正二位であったことを考えれば、権中納言に過ぎない行成を正二位とするわけにはいかないといった、道長のバランス感覚もあったのであろう(黒板伸夫『藤原行成』)。行成が正二位に叙されたのは三年後の長和三年(一〇一四)のことであった(相変わらず権中納言であったが)》というのは知りませんでした(k.7656)。

 それにしても道長の『御堂関白記』の漢文が小学生レベルだな、と驚いたのですが、行成の『権記』は実資の『小右記』と同じく大学生レベルだな、と感じました。

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