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『戦国期足利将軍研究の最前線』山田康弘、日本史史料研究会、山川出版

 足利将軍というと尊氏、義満、義政の3人とせいぜい義教ぐらいしか知られていないと思いますが、この本は応仁の乱で混乱した義政の子、九代将軍義尚から最後の十五代将軍義明までの戦国期の七人の足利将軍のそれぞれの評伝と裁判制度、軍事・警察力、栄典、朝廷との関係などを横糸にしたアンソロジー。

 いまやヘイト本を出すまで墜ちた宝島社に買収された洋泉社から出ていた日本史史料研究会の「研究の最前線シリーズ」がいったん廃刊となったものの、山川出版など良心的な版元に引き継がれたのは本当によかったと思います。

 義昭とともに警察権力が去って足利幕府が終わったみたいなのは(p.119)、レーニンの『国家と革命』第1章の、常備軍と警察とは、国家権力の主要な力の道具である、みたいなのを思い出す。今の日本の歴史学はかつての反動でアンチマルクス主義歴史観がスタンダードになりすぎていて、研究者の方々もこんな本さえ読んでないと思うので老婆心からちょっと指摘。レーニンは『経済学・哲学草稿』など初期マルクスの著作を読んでいなかったため、国家=階級抑圧の道具としてしか捉えていませんでした。日本中世史の権門体制論は、上部構造までを考慮した国家論、東国国家論は下部構造重視の国家論じゃないかな、と個人的には感じていますので。

 内容に戻り、家系図をみると戦国期足利将軍はみな義教からの系譜なんだな、と改めて思います。義教が鎌倉公方を滅ぼすなど足利幕府の権力戦線を拡大した末に暗殺されて以降、足利将軍家は縮小再生産の道を歩むのかな、とか。義政と義視兄弟の子は短期間しか将軍の地位に就けなかったものの、その後は鎌倉まで辿り着けなかった末弟の政知の子が十一代将軍義澄となって義晴、義輝、義昭と続き、途中の義栄も阿波公方から生まれます。考えてみれば、「相伴衆」も義教期に成立した家柄・身分だそうで、いったんは幕府をリセットしようとした義教の研究を読みたいと思いました(p.125)。

 栄典では偏諱が面白かった。代々の足利将軍の名前は義プラス一文字で構成されますが、戦国大名が名前をいただく際、「義」には返礼が多く必要だったというあたりは生々しい(p.124)。また、塗輿、毛氈鞍覆、白傘袋の使用御免、書札礼の改善などの待遇を求めて将軍に接近するのですが、戦国大名たちが他より少しでも上を目指したのには実質的な理由があるんだな、というのも初めて知りました。書札礼では裏書御免の特権を得れば、幕府公認のため相手は黙って受け入れるしかないそうで、こうした差異が優越を生んだ、と(p.129-)。

 朝廷は義輝-三好氏の争いに巻き込まれないために、1564年に三好氏から出された60年に1回の甲子改元の願いを拒否したというのも面白かった。辛酉の年の4年後に天意があらたまり、徳を備えた人に天命が下される革令の年という甲子に改元が行われなかったのは、明治時代まで甲子改元が行われなかったのはこの時だけとのこと(p.173)。

 最後の「江戸時代に生きた足利将軍の末裔」も初めて知る話しばかり。

 細川藤孝は足利義昭を見限って信長に仕えて栄達したことに「逆臣」の汚名を着せられるのを恐れてか、出自の疑わしい御落胤、道鑑を召し抱えたというあたり。細川家に感じるなんともいえない「ええかっこしい」の心根をみたような気がする。

 《「足利将軍のご落胤」を称する足利道鑑を厚遇し、それによってかつての裏切り行為を「帳消し」にしたうえ、「細川は忠臣である」ということを世間に示そうとした》というあたりは、まったく学術的ではないけど、江戸落語で細川の殿様がやたら武士の鑑みたいな感じで描かれていたりするのに通じるというか、世間からそうみてもらいたいというワケがあったんだな、と(藤孝の裏切り、明智光秀の娘ガラシャの件)。それは護熙さんにまで通じているかな、と。

 肥後五十四万石に入府の際、三代目の忠利は《小倉からの道中、行列の先頭に清正公の霊牌をかかげて熊本に入ったといわれる。また忠利ははじめて熊本城に登ったとき、石塁の上にすわり、清正公廟を遥拝して-あなたのお城を預らせて頂きます。と言ったといわれている。忠利のこの芸のこまかさは肥後の人心を得るためだったが、その細心さこそ細川氏の政治を生んだといえる》(『この国のかたち二』司馬遼太郎著、文春文庫、p64)という話しも思い出す。細川氏の政治というか「肥後熊本藩主家のイメージ戦略」みたいな趣旨の論文があったら読んでみたい。

 蜂須賀家を頼った平島足利家が人々の求めに応じて「足利家、清和源氏之印」と墨書された守札を発行し、マムシよけに珍重されたというあたりは、なんとも足利家の末裔らしいしたたかさも感じる。

 東アジアでは旧王朝の一族に対してはそれなりの冷遇をほどこすのが人徳とみなされたため、江戸時代でも徳川、蜂須賀、細川も足利血胤を尊重したものの、現体制を相対化するのは不都合であったため、足利という名字を使うことは認めなかったというあたりはバランス感覚だな、と(p.244)。

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