"Why Liberalism Failed"Patrick Deneen
ジムで筋トレ後の有酸素運動でエアロバイクをこぎながら、英語のサビ落としを目的にAudibleで聞いている本の15冊目は"Why Liberalism Failed"Patrick Deneen。
パトリック・デニーンはノートルダム大の保守的な政治学者でカトリック・コミュニタリアンとしても有名な教授らしいです。
この本では古典的リベラリズム(Classical liberalism)と単に「自由主義」と呼ばれている進歩的リベラリズム(Progressive liberalism)は同じようなものであると批判しています。さらに、日本を含めて先進諸国の問題としても考える場合、前提となるのはヨーロッパ流の社会民主主義や日本の左派は、アメリカのリベラリズムとほとんど同じということでしょうか。細かな自己主張はいろいろあるでしょうが、ざっくり同じだと考えれば分かりやすいし、実際にやっていることは似ているな、と(すぐ分裂したり、攻撃的だったりすることを含めて)。
著者の主張をひとことであらわせば、いろんなことがあったにせよ、リベラリズムが成功しすぎたために文化と伝統が危機に陥るだけでなく、目標とは反対の結果を生んでいるという感じでしょうか。社会を改善するための平等と多元主義、自由度を高める手段としてリベラリズムは素晴らしいんだと喧伝されてますが、実際には不平等を助長し、自由を損なっている、と。
リベラリズムは本来、平等を進め、信念と文化の多元性を受け入れ、自由を広げ、個人の尊厳を保護する手段として確立された政治的イデオロギーです。自分自身の良い人生を可能性の束の中から最適なバージョンを選択して追求するため、自律的かつ無制限の選択を行う能力は、個人個人の自律にも深くコミットしすぎるために、かえって弊害を生むんじゃないか、という感じ。
さらに、リベラリズムは左に傾いているか右に傾いているかにかかわらず、その成功が故に政治エリートの正統性を包含するようになり、そうしたところからも底辺の人々の反発を生んでいます。この本は市場(共和党)と個人の道徳(民主党)のリベラリズムの双方を批判するのですが、結局、二大政党によって社会的連帯は断片化され、コミュニティは喪失し、近年の感情的すぎる選挙にみられるように失敗に近づいている、みたいな。自由主義は個人主義に基づいたものであり、どちらにせよ、それは崩壊につながり、さらには専制的な政府にもつながる恐れがある、と警告しています。
ヘーゲルは「ミネルバの梟は黄昏に飛び立つ」と『法哲学』序文で書きましたが、この本では、リベラリズムで官僚化された政府(民主党的)とグローバル化された経済(共和党的)に対して批判を行い、虐げられていると感じている人々に支配を取り戻すと約束するような専制的な指導者への憧れは、本来、自治に不可欠な文化的規範と政治的習慣のリベラルな解体の後に来る、という感じでしょうか。こうした暗い予測は少なくとも欧米での近年の選挙でみられる有権者の怒り、幻滅を表現しているな、と。
経済の自由化によって多くの人々の生活が不安定となっていますが、一方で文化的自由化は保守的な信条を動揺させなかったのかもしれません。それをリベラル派が遅れていると批判するところにさらなる軋轢が生じるのかな、とか*1。
著者は自称リベラルたちの自身に満ちたおせっかいといいますか、自分たちは欲求の束ともいうべき人間性自体をも変えることができるという傲慢な「信仰」だけでなく、右派の自己愛的で暴力的な思考にも苦言を呈しています。そしてどちらにせよ窒息死されているのはアメリカの草の根の民主主義だ、と。
批判されているオバマも2018年の読書リストに入れています*2。
以下、断片的に。
コミュニティ、相互のケア、自己犠牲、小さな民主主義の文化の育成などを通した草の根のコミュニティ再び構築が必要だが、残念ながらリベラリズムはこうしたコミュニティと連携して機能することはできない、と。
著者な主要な主張は、自由民主主義は自然界の敵対関係に基づいており、人々を安定した法に支配された社会に組織化するという自由主義の考えは、自然の征服という概念に対応しているということで、これは東洋的な自然観に近いものを感じます。もちろん奴隷制、資本主義、帝国主義などの体制だけでなく、資源開発の経験的歴史からも真実味は感じられます。これはフランシス・ベーコンの、人間は自然を拷問にかけることによってはじめて知識を手に入れ、自然を支配できるというマッチョな哲学批判として展開されます。本来、自由主義以前の人間にとって、文化と自然の分裂の可能性は理解できなかったのに、と。
ギリシャ哲学に関する論議は煩瑣になるので省きますが(少しナイーブするぎると感じましたし)、自由主義以前の世界では、文化は自然秩序の繁栄の集大成として理解されていましたが、いまや文化は人工的で疑わしいものであると思われるようになった、と。著者は「リベラリズムが失敗した理由」を繰り返しトクヴィルに求めます。トクヴィルは民主主義が個人主義、唯物論、落ち着きのなさ、短期的思考によって崩壊するとしています。
保守派なのに環境保護などを熱心に説くあたりは新自由主義とリバタリアン批判にもなっています。
著者は最近の学生に西洋文明の歴史の知識が欠如していることを嘆いているので、いまは"The World"をAudibleで聞いています。芸術、文学、音楽、建築、歴史、法律、宗教などの個別の人間の遺産に保存されている文化は、人間の時間の経験を拡大し、過去と未来を人類に示すのに、いまは現在の瞬間だけを経験すればよくなっているとリベラルアーツの衰退も嘆いています。
この本で一躍有名になったデニーンはハンガリーのオルバーンやトランプ支持で失速しているのですが、個人的にはリベラル・レフトは資本主義の権化であるみたいな主張が面白かったというか、こうした部分がヒラリーや民主党への批判となって2016年の選挙ではトランプが勝ったんだろうかな、と改めて思いました。もちろん、こうした主張がポピュリズムへの道をさらに進めたという批判もあるでしょうが。
こちらもAudibleで聴き流しただけで、聞き直し、読み直してはいません。再び書きますが、談志師匠が『談志映画噺』での『絹の靴下』の語りで、シド・チャリシーにからんでくる3人組について《一人はピーター・ローレ、もうひとりがジュールス・マンシンでしょ、あともうひとりがジョセフ・バロフ? えーと、家元はね、記憶力は凄いんだけど、資料ってもんを見ないで書いているので不完全さにおいても、これまた凄い》(p.74)と資料をみないと公言してるんですが、ま、そんな感じですんで、お許しください。
*1『世界史の考え方』成田龍一、小川幸司を読んでいて思い当たるところがありました(p.186)。
今でも共和党支持者のプロライフは、女性の自己決定権の否定につながるとプロチョイス側は否定しますが、19世紀後半から20世紀前半の米国の人種主義の歴史から見ると、衛生学という科学的知見を装った断種法や異人種間結婚禁止法の問題がみえてくる、という指摘はハッとさせられます。
最初の避妊クリニックを開設したマーガレット・サンガーは女性運動の英雄でもありましたが、貧しい移民や黒人に「劣等な子孫」をつくらせないことが重要とも主張。優生学を支持していると批判されるようになりました。実際、米国における優生学の浸透によって1944年までに全米で4万2000人が断種された、と(p.185)。
カルフォルニアでも戦前は異人種間結婚禁止法が施行され、帰化不能外国人とされた中国人に変わって海を渡った日本人も、家庭を持とうとすれば、日本との間で写真のやり取りで決める「写真婚」しか方法がなくなり、それが「恋愛至上主義」の米国人から野蛮視され、文化摩擦の要因になった、と。
米国の衛生法などの法体系は誰を国民とし、誰を排斥するかの選別の歴史をであり、それはナチスのニュルンベルク法のモデルにもなった、と。
シヴェルブシュの『三つの新体制』はファシズム、ナチズム、ニューディールが似ていることを説き明かしたけど、それを思い出しました。ルーズヴェルトのニューディールは私益に対する公益の優先が主張されており、彼の『前を向いて』はナチスが書いたとしてもおかしくない、と見られていたという議論や、ドイツ、イタリアだけでなく、アメリカ、ソビエト・ロシアでも第一次世界後にはナショナリズムが高揚し、先立つレッセ・フェールの50年間に破壊されたものを取り戻すことが主張されたそうです。それは個人主義によって廃棄されそうな共同体や工業によって脅かされる手工業、文化だった、と(p.98)。結局、ナショナリズムはグローバル経済に対する抵抗として組織されていったのかもしれないな、なんてことを思いながら読んだんですが、経済だけでなく、文化面でも米国とナチスとの親和性というのはあったんだな、と『世界史の考え方』と『三つの新体制』には改めて考えさせられました。
*2FaceBookでオバマは「不平等が拡大し、変化が加速し、過去数世紀にわたって私たちが知っていた自由民主主義の秩序に対する幻滅が高まっている時代に、私はこの本が示唆に富むものだと感じました。著者の結論のほとんどには同意しませんが、この本は、西側の多くの人々が感じるコミュニティの喪失、リベラリズムが自らの危険を無視している問題についての説得力のある洞察を提供します」と書いています。