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『天皇と軍隊の近代史』加藤陽子、勁草書房

 《四〇〇ページ近い本書の「あとがき」までとどりついてくれた読者には、感謝の言葉しかない》

 アンソロジーの論文集から加藤先生の担当分を抜き出して編んだだけに、新書的な読みやすさがなく、専門性も増して、固有名詞などを検索しながら読んだので、思ったより時間がかかってしまいました。

 呉座勇一先生*1による朝日新聞書評では《明治の軍人勅諭で政治への介入を厳しく戒められた帝国陸軍がなぜ昭和期に政治化したのか》ダニ・オルバフの『暴走する日本軍兵士』も含めて《正直なところ、これらの本の説明を受けても私にはまだ釈然としない気持ちが残る》と書いています。

 「あとがき」では32年に発生した血盟団事件と5.15事件の首謀者だが、事件に参加することなく2月に上海事変で戦史した藤井斉の文書をたどると、軍人勅諭の組織的な読み替えが軍の中で進行していった端緒が見られ、それは東條英機がサイパン陥落の責任をとって首相を辞任する時に訓示した「陛下ノ御命令ナレバ何事デモ絶対服従シナケレバナラナイガ、広義ノ解釈デハ、国家の為ニナラヌ場合ハ、上命ニ背イテモ良イ」という発言まで浸透するとしています(p.306)。

 昭和天皇は終戦の"聖断"の際、表面上は軍人たちを米軍の裁判にかけるのは忍びないと泣くのですが、軍はポツダム宣言の条件である武装解除と犯罪人処罰を回避しようとしていただけと見ていて、そうした私心を「拙い」と後に批判しています(p.318)。

 呉座先生の書評に沿っていけば、この「私心」が出てきた理由が分からない、ということなんでしょうが、長州閥を廃そうとした永田鉄山らの陸軍グループらの野望がもたらした、ということなのかな、と思いながら読んでいました。そうした野望を研究として説き起こすのは難しいかもしれないけど、永田グループと付かず離れず大陸進出を果たした石原莞爾が、武士の伝統に根ざす軍内部の合議制と平等意識を批判していたことなども加藤先生はあげています(p.360)。

 ただし、加藤先生が「あとがき」で武士の発生から説き起こしている合議制と平等意識は、果たして、今の日本中世史研究からは、そう言えるのか…などと考えると、呉座先生の批判は、こうしたあたりがポイントになっているのかな、とか。

 ま、とりあえず、最初の方から。

 共著『天皇はいかに受け継がれたか』と同様、長い『総論』が刺激的。

 【総論 天皇と軍隊から考える近代史】 上海事変の意義を満州事変から国際社会の目をそらすためという通説を見直し(p.46)、青年将校が積極的に極左派に指導されていた当時の日本共産党と連携を図り(p.28)、政党政治の存立基盤を危うくするとともに、列強経済に出血を強いることで、日本への干渉から手を引かせることにあったとしています。
 著者自ら《陰謀史観と見まがうような筆致》(p.44)と書きつつも、元老西園寺が陸軍を極左が動かしている、という観察を的確だと仮定。
 西園寺はこうした観察の上で、昭和天皇が求めた戦争の芽を鎮静化させるための御前会議開催を「会議の決定に従わない軍人が出たら、天皇の権威が決定的に失われる」として反対します。西園寺にとっては、国外紛争の悪化よりも、東久邇宮や伏見宮を推戴した内閣、秩父宮の内大臣就任による天皇親政という名の元による昭和天皇の無力化の方が悪夢だった、と判断した、と(p.45)

 第一章の《国家の運命を左右する外交交渉に、譲れない条件=「この国のかたち」として、累積された戦争の記憶が重要な要素として浮上している》(p.60)という言い方は素晴らしい。国家の譲れない条件=この国のかたち、という言い方は、アイデンティティ=心の拠り所という言い方を思い出させる表現。

 【第二章 軍国主義の勃興】は一番、読み応えがありましたので、少し詳しく。

 [はじめに] 日本の古代国家は、隋・唐などの中華帝国の周辺部にあって文化的に遅れた国として誕生した。こうした日本が国家としてのアイデンティティーを確保し、国内支配のための権威付けを行うためには朝鮮半島の王朝(新羅など)を日本が従属させているとの虚構、また、中国の歴代王朝と対等の関係を築いているとの虚構が必要だった。『日本書紀』も、天皇に服属している国として朝鮮半島の国々を描いており(神功皇后の新羅征伐点、三韓朝貢)、このような虚構や創作が国内支配にとって不可欠だった、と。天皇の支配が確立し始めた古代日本においては、朝鮮と中国を関係づけることで、自らの国内支配上の権威付けが行われており、昭和天皇もポツダム宣言受諾から1年経った日に鈴木貫太郎、吉田茂等を招いた茶話会で、白村江の戦いで負けて半島から手を引いて引いて大化改新が行われたと、1300年前の戦いを引き合いに出しているほど。天皇をいただく古代国家は、中国の柵封体制に入ると朝鮮と日本が同等になってしまうため、朝貢使節を送りながらも柵封体制には入らないようにしていただけでなく、天皇と言う称号を生み出した動機も、「東夷の小帝国」をつくる意思からだった。それは朝鮮半島に求めるしかなく、天皇が天皇たるためには朝貢国が必要不可欠だった、と。木戸孝允は征韓論に反対したが、明治維新直後の日記では、対馬藩が送った使節に対して、王政復古を認めないのは無礼であると攻撃すべきと書いているほど後世にも影響を与えます。木戸は王政復古がなされたならば、朝鮮は日本に服属すべきと言う認識を持っていたわけです。時の政府は、攘夷論者から欧米を討てと攻撃されており、王政復古の理念によって国内世論をまとめる手段として朝鮮の服属と言う古代の神話に依拠した虚構で国内をまとめる必要があったわけです。日本の朝鮮、中国観は通称上の利益や領土獲得といった問題ではなく国内向けのアイデンティティーの問題として用いられてきた、と。

[2 政軍関係の特質と構造] 西郷隆盛下野後の政府による征台湾論、征韓論は長州系を中心とする内治派に、薩摩と土佐を出身母体とする郷党グループが対抗するため、兵権掌握の機会を外征で得るためのものだった。また、同時期に佐賀の乱が発生したため、東京在住の旧薩摩藩出身者が敢えて台湾出兵を強行した。統帥権は1889年には確立されていたのですが、統帥権の独立による弊害が起こり始めるのは政党、官僚、軍閥の三勢力が元老から自立化した後。伊藤博文は憲法を君主権を制限するものと正しく理解していた。議会は長い戦争が特別会計として処理されるために軍事問題に関与しうる範囲は極めて限定されていた。日露戦争当時の政府と軍の関係は極めて円滑だった。それは伊藤、山形有朋などが政府と軍をまとまめていたから。

 [3 日清日露開戦の過誤と正当化の論理] 日清日露戦争が戦われたのは日本が国家としての安全感を確保するためには、朝鮮半島が他国の支配下に入らないようにする必要性があると為政者たちが一致していたからに他ならない。山形有朋は日清戦争開戦直後の日記で日本の敵は揚子江の利権を狙うイギリス、雲南を狙うフランス、蒙古を狙うロシアであると記している。それなのに中国はますます衰退しているため、日本は機会があれば進んで利益を収める準備が必要だとしている。山形は列強との紛争に巻き込まれないように注意するとともに自らもその機械に乗じて利益を上げるべきだとしている。興味深いのは山形の警戒の対象が英仏露に向けられていたこと。
 日清戦争開戦時の伊藤首相は朝鮮半島男を日本と中国で共同して改革する案を李鴻章が飲むと見ていた。伊藤と陸奥宗光は戦争にはならないという楽観に支配されて交渉に臨んだ。戦争が避けられなくなった時、日本側は正当性を主張するために朝鮮の内政改革を推進する日本、これに反対する文明の清国というイメージをつくった。日清戦争の結果、朝鮮国王は親ロシア路線を選択することになった。また、ロシアが遼東半島まで鉄道を敷設する権利を獲得した事、旅順に海軍根拠地が築かれる事は日本の脅威となった。山形有朋はこの時点でもロシアとの戦争には反対し、桂太郎が寺内正毅陸相を従えて説得しなければならなかった。桂太郎は朝鮮問題をロシアが聞かないときには戦争に訴えるしかない、と考えていたが、アメリカの世論を味方につけるため世界が無関心な朝鮮問題ではなく、満州の門戸開放を前面に打ち出した。また、日本の輸出比率は12.8%まで上昇していたが、輸出相手地域は朝鮮と満州しかなかった。満州地域での門戸開放を認めなかったロシアに非文明というレッテルを貼ることで、英米の支持もとりつけようとした。
 日露戦争で日本軍の砲弾はクルップやアームストロンに依存しており、砲弾による殺傷率も14%と低く、国内工業力の低さも相まって費用対効果が悪いと判断され、陸軍は白兵突撃主義という時代に逆行する思想が生まれてきた。また海軍もバルチック艦隊を壊滅させたのは大艦巨砲によるものとの虚構を描き(実際にトドメを刺したのは水雷艇と駆逐艦)、過信を生じさせた。石原莞爾は幼年学校時代から陸軍、海軍の総括に疑問を抱き、留学先のドイツでデルブリックに出会う。ドイツは、敵主力を短期に包囲殲滅できなかったことに第一次大戦大戦の敗因をみていたが、デルブリックは戦争には決戦と持久の二つがあると考え、ドイツ参謀本部は経済封鎖や国民動員への対応に不備があったとしていた。石原莞爾は資源の乏しい日本に敵国が消耗戦を採ってきた場合に、経済封鎖に負けない体制をつくるべきだと考え、陸軍の中堅幹部らと議論していく。

 [4 植民地帝国日本の権益と国際情勢] パリ講和条約で日本の外交は反省を強いられた。原内閣はワシントン会議で主力間の比率を6割とする条約に調印し、日英同盟を終了させ、国際連盟とアメリカを中軸とするヴェルサイユ=ワシントン体制との協調を選択した。しかし、国際的な中国投資の窓口として設けられた四国借款団で日本は満蒙を投資対象外とすることを主張し、辛うじて認められたものの、陸軍はたった150人しか影響がなかった移民法について、日本人を中国人と同等に扱うのは、中国からあなどられ、戦争の機会が増すと主張。帝国国防方針の仮想敵国は、ロシアから中国、さらにはアメリカに変えられていった。

 以下は印象に残ったところを中心に。

 旧日本軍に欠けていたのは「国民国家や社会は真空のなかで生きているのではなく、欲すると否にかかわりなく、ひとつの国際的システムにしばられている」という視覚だった、と(p.193)というあたりは、今の北鮮、イランなども同じかな、とか。

 有田外相は《軍部があそこまでやれたのは、結局外国に軍隊をやいていたから》と、閣議決定が必要な参謀総長の奉勅命令が無視されたと書いていているのですが、ここで満州事変の時に朝鮮軍を越境させた林銑十郎、事後追認した金谷範三参謀総長と南次郎陸相はみんな長男じゃないことに気づきました。さらにバーデン・バーデンの密約を交わした陸軍三羽烏の永田鉄山も三男、小畑敏四郎は男爵の四男、岡村寧次は旗本の次男。みんな長男じゃない。旧帝国陸軍になんとなく感じるバカっぽさ、軽さは長男としての教育を受けた人物が少なかったから、とかいう研究はないのかな、とまで思いました。ちなみに石原莞爾も三男ですが、長男と次男は幼くしてなくなっています。当時の幼児死亡率の高さを考えると長男としての教育を受けなかったから…という言い方も難しいかもしれませんが、誰か書いてくれないかな、と。

 山本権兵衛内閣が現役を削った事で、陸軍は大臣の権限縮小に動き、参謀総長と教育総覧との合議制へと舵を切ったのですが、それが真崎罷免問題→相沢による永田暗殺→2.26→東條へと続く悪夢になったのかな…。悲しい(p.208-)。

 陸軍が社会大衆党の支持を、経済政策の違いから失ったことは、近衛が親軍的新党への参加意欲を失う結果となり、庶政一新策の実現を困難にした、というのは新しい視点かな、と(p.211)。

 1940年春夏にオランダ、フランスが敗退したことは、当時の人々には「世界史的転換点」と捉えられた、という視点も新鮮でした。これによって近衛内閣のナンバー委員会が復活し、蘭仏のアジア圏植民地の処遇を対処することになります(p.229)。

 日独伊三国同盟は、仏印、蘭印が戦勝国ドイツに占領されることを防ぎ、ドイツの影響力を東南アジアから排除する意味を持っていた、という見方はあるんだな、と。植民地宗主国を抑えたドイツによる東南アジア植民地再編成を、まだ参戦してない日本が封じ、しかも参戦義務も自主判断が担保された、と(p.276)。

 ヒトラーは当初、日本に冷淡だったが、和平提案を英国が拒絶したことから、スターマー訪日を決定すめことになります。ドイツ側の要求は米国牽制と米国の欧州戦線参戦阻止で、ドイツはシンガポールへの米国艦隊入港なども日本の参戦条件に入れようとするなど粘るも、拒絶されることになります。松岡洋右は大局は見失っていたものの、局面、局面では確かによくやっていたのかもしれません。


*1   世間では「過去は変わらないのだから、歴史は暗記ものだ」という印象が強い。受験勉強の名残だろうか。しかし歴史学界では新しい研究成果が不断に生み出され、通説は日々塗り替えられていく。作家や評論家がしたり顔で語る史論が、学界ではとっくの昔に否定された説に依拠していることも珍しくない。
 近代史においては、歴史像が更新されていくスピードが特に速い。司馬遼太郎の『坂の上の雲』や『この国のかたち』で理解が止まっている人が本書を読んだら驚くだろう。
 たとえば日清戦争については、当時外相だった陸奥宗光の戦後に発表された回顧録『蹇蹇録(けんけんろく)』に引きずられて、日本側が意図的に戦争に持ち込んだとかつては考えられてきた。だが近年の研究では、清国に対する強硬な外交姿勢は開戦決意に基づくものではなく、戦争にはならないという伊藤博文らの根拠のない楽観が背景にあることが解明されている。
 日露戦争に関しても、日本の世論は戦争を支持していたというのが古典的な理解だったが、以後の研究では日本国民のかなりの部分は厭戦的だったことが指摘されている。三国干渉への怒りに燃えた日本国民が臥薪嘗胆(がしんしょうたん)してついにロシアに勝利するという「物語」は日露戦勝後に生み出されたという。
 このように興味深い論点が多数見られるが、やはり最重要なのは表題通り、天皇と軍隊の関係であろう。明治の軍人勅諭で政治への介入を厳しく戒められた帝国陸軍がなぜ昭和期に政治化したのか。「天皇の軍隊」であるはずの彼らがなぜ昭和天皇の非戦の意思をふみにじったのか。これは古くて新しい問題で、昨年邦訳が出たダニ・オルバフの『暴走する日本軍兵士』も同じテーマに挑んでいる。正直なところ、これらの本の説明を受けても私にはまだ釈然としない気持ちが残る。今後も考え続けるべき難題なのだろう。


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