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『16テーマで知る鎌倉武士の生活』

『16テーマで知る鎌倉武士の生活』西田友広、岩波ジュニア文庫

 良書の宝庫、岩波ジュニア文庫は素人の歴史好きにとっては本当にありがたいシリーズです。

 「御家人」という言葉も、頼朝の地位が確立するにつれ、頼朝の家人に「御」が付いたものとか知らなかったし、
・平安時代の地方社会では、律令制による、戸籍に基づいて一般民衆を兵士として徴発する軍団制が、軍司の子弟を中心とする健児制に移行(p.17)

・義経は八番目の子でありながら、偉大な叔父の八郎為朝に遠慮して九郎を通称とした(有名な話しらしいですが、知らなかった… p.105-)

・公領では郡司や保司などが、荘園では下司や公文(国衙や領家に対して提出する文書を作成する者)などの荘官が、下知での土地の管理を行っており、これらはまとめて「荘公下職」と呼ばれていた(p.160)

・直義は御家人と「本所一円地住人」を区別して動員しようとしたが、混乱が長引くなかで、動員に応じない場合は敵方とみなすようになり、直接主従関係の無い武士も守護から軍役を賦課される国人となっていった(p.195)

 なんかは勉強になりました。

 著者の西田友広さんは東京大学史料編纂所の准教授で共編著書には『現代語訳 吾妻鏡』吉川弘文館で第70回毎日出版文化賞を授賞していますが、担当した10巻では寛喜の大飢饉を乗り越えて制定された「御成敗式目」などを担当しています。

 「おわりに」のまとめが素晴らしい!

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 この本では、一六のテーマから鎌倉武士、すなわち、源頼朝に従って鎌倉幕府を作り上げ、その鎌倉幕府のトップである鎌倉殿に仕えた武士の姿を見てきました。鎌倉武士の生活のあり方については個別の章で具体的に見てきましたので、ここでは、政治や社会の動きの中で鎌倉武士のあり方をまとめておきましょう。

 社会における武力の担い手として登場してきた武士たちは、次第にその政治的地位を高め、平清盛は武士として初めて政権を掌握しました。一方、一一五九(平治元)年の平治の乱で清盛に敗れた源氏は逼塞を余儀なくされます。平治の乱によって伊豆国に流罪となった源頼朝は、一一八〇(治承四)年に挙兵し、南関東の武士たちを味方にすることに成功して鎌倉に入ります。こうして、鎌倉を本拠地として鎌倉殿と呼ばれるようになった源頼朝と、頼朝を主君として仕える武士、すなわち御家人とからなる政治勢力が誕生します。平氏の主導する朝廷に対する反乱軍・反政府武装勢力としての出発でした。

その後、頼朝は後白河上皇と接触して官軍・政府軍へと立場を変えることに成功し、平氏、さらに奥州藤原氏を滅ぼして唯一の武家の棟梁となります。反乱軍・反政府武装勢力から出発し、戦乱の中でその権力を拡大してきた頼朝とその御家人たちは、一一九一(建久二)年には、日本全国の治安維持にあたる存在として、社会の中にその位置づけを確保しました。こうして鎌倉殿をトップとする武家政権である鎌倉幕府が誕生し、御家人たちは幕府から守護や地頭に任じられて、治安維持や年貢の徴収・納入などを行うことになりました。

 鎌倉時代中期以降になると、分割相続の行き詰まりなどから困窮する御家人が現れる一方、荘園制の展開の中で、社会全体で所領をめぐる紛争が頻発するようになり、治安維持を役目とする幕府御家人の負担は増加していきます。幕府内では北条氏の役割が増加して北条氏への権力集中が進みますが、御家人以外を動員することのできない幕府は治安維持の役割を十分に果たすことができなくなっていきます。

 治安維持に関する負担と不満が幕府に集中する中で、後醍醐天皇が挙兵し、有力御家人であった足利尊氏がこれに応じて、一三三三(元弘三)年、鎌倉幕府は滅亡します。しかし、滅亡したのは北条氏とその家来たちがほとんどで、多くの御家人たちは幕府から離反しました。御家人たちは、南北朝の戦乱の中で国人へと姿を変え、後の時代を生きていくことになります。

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目次
鎌倉武士とは
鎌倉武士の誕生
鎌倉武士の住居
鎌倉武士の食生活
鎌倉武士の服装
鎌倉武士の武装
鎌倉武士の合戦
鎌倉武士の武芸
鎌倉武士の人生
鎌倉武士の教養
鎌倉武士の娯楽
暴力と信仰
鎌倉殿への奉公
守護と地頭
女性の地位
鎌倉武士の行方

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