『日米同盟 漂流からの脱却』栗山尚一、日本経済新聞社

 外務省高官たちの戦後の日本外交=ほぼほぼ日米外交のオーラルヒトリーを三冊読んでみて、この間の主役は間違いなく栗山尚一元外務省事務次官だなということは改めて理解できました。

  NHKスペシャル『自衛隊と憲法 日米の攻防』にも出演なさっていましたが、冷戦が終結に向かう過程でアメリカがあんなに強く日本に防衛分担を求めるようになってくるとは予想外だったでしょうし、89年のベルリンの壁崩壊直後の湾岸戦争で、自衛隊の参加を求めてくるとは誰も考えていなかったのではないでしょうか。ということで97年に出た栗山尚一元外務省事務次官の『日米同盟 漂流からの脱却』を読んでみました。  

 新安保条約締結と自動延長・沖縄返還後は、日米関係といえば、経済問題が中心でした。それが冷戦終結後は一転、安全保障が中心となったわけで、外務省の対応も大きな変化が求められたんだと思います。とはいっても、内々では、こうした変化もありうべしということで、検討は進んでいたんでしょう。

  『沖縄返還 日中国交正常化 日米密約』を読んでも、その主張は非常にクリアカットなんですが、それは栗山元次官がアメリカからのオブラートに包まれていない要求を知る人物だったからなのかなと思います。  その日本外交のキーパーソンがプロローグで強調しているのが、戦勝国と敗戦国の関係で日米のように緊密な友好関係を気付き上げることに成功した例はなく、その基礎となっているのが安保条約であり、この関係が政治的には冷戦の終結にも貢献し、経済的にもダイナミックに発展した、ということ(p.5-)。しかし、冷戦後は改めて共通の利益を設定することが必要になり、直後に発生した湾岸戦争によって、いきなり試練に立たされたわけです。それを日米同盟の漂流と筆者は呼び、タイトルにも使った、と。  その核心は何かといえば「日本は憲法や平和主義を対外的な責任逃れの口実に使っている」との印象が米側に伝わったことでしょう。湾岸戦争の時、石油を運ぶシーレーンの防衛で最も利益を得るのは日本でしたが、やれたことは、憲法上の制約もあって戦争終結後の掃海作戦だけでした。そこで見事な働きぶりをみせたのですが、カネだけ出したという印象は拭いされることができなかった、と(国際平和部隊構想が頓挫して、自衛隊によるPKOになっていくんですが、当時はよくあの法案が通ったな、と思いました)。 

 また、140億ドルの支払い問題で情けなかったのは、多国籍軍の展開に対して、どのぐらいカネがかかるか、全く肌感覚が日本側に全くなかったことじゃないかなとも思いました。旧軍は勝てば賠償金で補填するという考えで、負けた時のことを考えてなかったし、こういった点ではアングロサクソンにはかなわない…。

  経済的な側面でも漂流は続きます。プラザ合意に関して、筆者の(外務省の)評価は「日米それぞれの国内的不均衡を放置したまま、為替レートの調整だけで対外的不均衡の是正を図った」から、後に消耗するだけの日米構造協議をやらなければならないハメに陥った、というものなんでしょう(p.54)。

  また、プラザ合意後の急激な円高で、ASEAN諸国はODAの円借款の支払いが大きな財政負担になったんですが、それを教訓に、結束して発言力を強めようとしてASEANの経済統合が加速した、というのはなるほどな、と(p.60)。

  しかし、80年代に日米関係が貿易赤字で悪化した時、米国ではジャパン・バッシング、日本では嫌米、侮米の機運が盛り上がったと書いているのを読むと、今の日中関係なんも同じといいますか、人間の反応というのはワンパターンだな、と思います。

  米国で大恐慌と第二次世界大戦が最大の出来事だったと考える人々が高齢化によって少なくなるなかで、ニューディールで導入された福祉のカットが可能になった、というのもなるほどな、と思いました。アメリカは第二次大戦語も東西冷戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争を戦い、やっと冷戦に勝利したと思ったら、経済は80年代後半から悪化。91年にはマイナス成長となったことで、目が国内問題に移り、それに応えたのが民主党のクリントンだったわけですが、福祉カットをクリントンが実施することが、60年間続いた米国のリベラリズムは崩壊した、と(p.115)。  

 クリントンもオバマも医療改革で苦戦したのは、国民皆保険の実現よりも、連邦政府の肥大化=国民の支持を失ったリベラリズムの復活をアメリカ国民が嫌ったからなのんだろうな…という構図がやっと頭の中で定着しました。  しかし、クリントンは雇用と医療保険、犯罪の問題を片付けたら、アメリカ国民の目をもう一度、世界に向けようと考えていたそうで、話し半分にしても、すごい構想を持っているんだな、と感じます(p.117)。

  第二次大戦というとアメリカ人は真珠湾、日本人は広島・長崎の記憶しかない。太平洋戦争とは日米にとって何だったのかという答えが、双方の国民にとって共有化されておらず、日米にも歴史認識ギャップかある。戦争は日米でも大きな歴史の負の遺産になっているというあたりも印象的でした(p.223)。

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