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『江南の発展 南宋まで(シリーズ中国史第2巻)』丸橋充拓、岩波新書

 中国の古典国制が、分裂国家から郡県制へ一本化されていく中で、一君万民思想が浸透していくが、底辺においては「規制もないが保護もない」社会が生み出され、人々は「個人間の信頼関係」=「幇(ぱん)の関係」で身の保全を図っていく、という流れがよく理解できた一冊。

 それぞれの時代に対応する日本史の出来事にもふれているのは東アジア史として大陸、半島、列島を見る際にも役立つな、と。

 目次に沿って、箇条書き風にまとめていきます。

[はじめに]
 
 中国は東南アジアの北部と内陸アジアの東部が出会う場所で、12-13世紀の金・宋時代を含む10-13世紀を第二次南北朝時代と呼ぶこともある。

 中国の民は日本に比べて流動的でアウトロー化した浮浪の存在感が大きい。日本や西欧は国家と民衆の間に領主がいたが、中国には官僚がいた。宮崎定市は官僚を皇帝の意思を末端に伝える電線に喩えたが、だから官僚たちは横のつながりが認められない。一方、民衆は人と人のつながりである「幇(ぱん)」の世界に住んだ。

 中国の民衆反乱はほとんど南方で起こったが、全土を統一するケースは少なく、あっても短命に終わった。また、日本で三国志の人気が高いのは帰依できる指導者への渇望が高いから?という指摘は面白かった。

第1章 「古典国制」の外縁―漢以前(長江流域の諸文化;「楚」の血脈;「古典国制」と対峙する人びと)

 《始皇帝による郡県制一本化、項羽による封建制一本化、劉邦による郡県制・封建制折衷》というまとめは目から鱗が落ちるほど見事でした(p.21)。
 
 春秋・戦国時代まで分裂「国家」が並立していた中国で、一君万民を目指した秦は地方を一元支配しようとしますが、地域社会からの反発から陳勝・呉広の乱などで倒れます。項羽は十八ヵ国の封建制に戻しますが、ライバル劉邦は秦の統治制度の優秀さを認識しており、咸陽を落とした際に蕭何を使って秦の統治制度を支える図籍・文書を抑えます。そして、帝位に就いた後は長安のある帝国の西半分は郡県政、東半分は封建制とする現実主義的な郡国制をとります。旧六国への配慮から、功臣たちをそれぞれの国の王として処遇したものの、徐々に勢力を削ぎ(狡兎死して走狗煮らる)、劉一族を王に据える、と。やがてその王たちも封土を減らされ、反発した諸侯は呉楚七国の乱を起こす、という流れが分かりやすかった。

第2章 「古典国制」の継承―六朝から隋唐へ(南からみる『三国志』;江南の「中華王朝」;六朝の貴族たち;隋唐帝国と江南)

 孫権は《西の蜀のみならず、北は遼東・高句麗、南は東南アジア、さらに東にも連携先を模索するなど、呉を中心するまことにスケールの大きい全方位外交を積極展開していた。これは「江南立国の王道パターン」として、東晋南朝、五代の呉越国、南宋、さらには南京国民政府などに継承されていく(海禁を徹底した明初南京政権は例外的)》という視野は深くて長いな、と(p.47)。

 また、一君万民体制の下にある農村では小農民のプレゼンスが大きく、豪族といえども一方的な領域支配は樹立できなかった、という見方もなるほどな、と(p.63)。

 《六朝期とは、「中原に遊牧系の政権ができるなか、江南の人々が中華文化の継承者を自認する」という構図が初めて生まれた時代》というのもわかりやすい(p.70)。そして600年に倭国は120年ぶりに隋へ使節を派遣するのですが、《倭国にとって、北朝系の王朝に朝貢する史上初めての経験だった》というのも、初めて気づきました(p.73)。隋の天下は短命で、唐の三代高宗の時代(649-683)になると半島では新羅が唐と連携を強化して統一。倭国は白村江の大敗(663)で拠点を失うとともに、朝貢も40年間中断せざるをえなくなった、と(p.81)。

第3章 江南経済の起動―唐から宋へ(運河と海;文臣官僚の時代;花石鋼)

 北宋の趙匡胤は歴代王朝の火種だった「地方軍団の兵権回収」を、有力節度使を招いた酒宴で巧みに同意させ(杯酒釈兵権=杯酒、兵権をとく)、軍事力を集中させた、と。これは北宋の文治王朝ぶりを示す、と(p.98)。

 趙匡胤は酔い潰れて寝ている間に幼帝に不安を覚えた部下が勝手に黄色の上着を着せて禅譲を迫ったというエピソードがあるほどの大の酒好き。この酒席でも、元同僚たちに「皆の部下が皇帝の印である黄色の上着を着せて即位を迫ったら、いつまでも国が治まらない。首都である開封に豪勢邸宅と恩寵金を与えるから」と言いいくるめたと伝えられています。

 北宋では日本の奈良東大寺の僧であったちょう然を謁見した太宗(趙匡胤の弟)が易姓革命の起こらない訳を聞いて興味を示したとされていますが(p.97)、ひるがえって日本の場合、天皇はこうした問題意識を持ったのかな、とも感じました。天皇が武士の兵権回収に乗り出したのは後醍醐と明治の2回だけなのかな?後醍醐も兵権回収というよりも、単に服従だけ求めたわけで、防人以来となる一君万民による兵役が問題されたのは明治維新だけなのかな、とか。

 水滸伝などで暗君の代名詞となっている徽宗(1100-1126)ですが、王安石以来の新法の推進に意欲を持ち、御筆手詔で直接、指令を下したり、身寄りのない者たちの共同墓地をつくったりしていたというのは初めて知りました。日本で言えば後鳥羽上皇(1180-1239)並みの文系カリスマかつ亡国の名君だったんですかね。中国では12世紀、日本では13世紀に文化のチャンピオンとも言うべき王が現れ、その王朝を崩壊させた、という見方もできるかな、と。ちなみに日本にある『桃鳩図』は国宝です。

第4章 海上帝国への道―南宋(金・モンゴルとの対峙;江南の繁栄;海上帝国の形成)

 《宋以降の科挙官僚は「官僚・地主(資本家)・読書人の三位一体構造」と言われる-中略-中華帝国では官僚になれば政治力・経済力・文化力すべての社会的威信を総取りすることができた。しばし用いられる「昇官発財」という言葉には、中国において政治的成功と経済的成功が密接にリンクしていたことがよく表れている》という構造は、富商たちに国家機構内で上昇する方向に向かわせ、国家権力を掣肘する動機は生まれなかった、と(p.145)。

 日本でも学者が比較的尊敬されているのは、こうした基層があるからなのかな。米国のノーベル賞受賞者は伴侶を弟子の異性に求めることが多いといのとは違う感じ。光格天皇以降の劣等感もあるかもしれないけれど。

第5章 「雅」と「俗」のあいだ(俗―地域社会の姿;雅―士大夫のネットワーク)

 画期的なのは5章。《「船の世界」を主旋律、「民の世界」「官の世界」を副旋律として、モンゴル帝国以前の「中国」史を概観してきた。中原に生まれた「古典国制」が広がり、長江流域や大運河沿いの「船の世界」を取り込んでいくプロセルについては、時代を追ってたどって》きたが、5章は1980年代以降に解明されてきた副旋律である民衆や士大夫について深掘りしている。

 [俗 地域社会の姿]日本の静嘉堂文庫に一部が伝えられていただけの南宋時代の上級地方官による判決集『名公書判清明集』が北京と上海で発見されたことによって、地域社会の実相が明らかになりました。

 当時の南宋江南の地域社会にはボスである豪民、官庁の末端実務を担う下級役人「胥使(しょり)」が有力でしたが、清明集ではそうした豪民、胥吏たちを地方官が裁判にかけて処罰する過程が詳しく書かれています。しかし、実際にはもちつもたれつの関係であり、歴代王朝は一君万民の統治システムを採用しながらも、「小さな政府」だったので、地方官は地域の有力者の協力なしには実務を遂行することさえできなかった、と(p.164)。

 そこから浮かび上がるのは、家、村、ギルドなどの中間的な社会集団が中国においては「法共同体」としての自律性を持たなかったのではないか、という議論。清明集では家庭内の些末ないざこざが役所に持ち込まれており、家父長制よりも、国家権力が家の内部まで介入する国制がうかがえる、と。日本のムラは日常の農作業からインフラ保守、冠婚葬祭まで、構成員の生活を丸ごと面倒見ますが、中国ではピンチになると逐電する、と。つまり、中国では家、村、ギルドなどの中間的な社会集団が固定的で安定した枠組みを持たなかった、と。科挙に受かればオールマイティという「昇官発財」の広い門戸が開かれている一方、中間団体に属する人々は垂直・水平方向に激しく動くわけです(p.167)。

 中間団体に依存できない中国の場合、世間の荒波から保護してくれるのは「個人間の信頼関係」=「幇(ぱん)の関係」だったというのが著者の立場。アウトロー化した人々は都市・農村で日雇い労働の資源となり、兵の供給源になったのですが、このような兵士が多かったため、「武」は常に卑しまれる結果にもなった、と(p.169)。

 中国の歴代王朝は武力革命で、最初は優遇された開国の元勲たちは粛清の対象となり、安定期に入っても「内部に芽生えた攪乱要因の除去」を対外防衛より優先させるため、弱兵ぶりをさらけだすようになり、こうした傾向は蒋介石にも引き継がれます。そして、武力そのものについては制度化の契機すら備えられなかった、と(p.171)。

 [雅 士大夫のネットワーク]

 科挙が拡大し、合格を目指す受験生が多くなると、未合格者の数も増え、「満たされぬ思い」をくすぶらせた青年・壮年が地域社会に厚く累積しはじめます。彼らの教養は儒教ですが、こうした官僚予備軍というか浪人に対して「汝かくあるべし」という指針を示してくれませんでした。しかし、朱子学は身近な修養の指針と、その延長線上に天下国家を見据える展望を提供し、多くの共感を勝ちとった、と。しかも、朱熹の活動拠点である福建は科挙合格者ランキングで常に一位の座を占め、しかも出版業の中心地だったことから、西欧のルターのように読者を獲得していき、地域指導者としての自覚を高めていった、と。

 中華帝国は一君万民の専制国家だが、外形的な一元制にはこだわるものの、人々の日常への関心はなく、行政機能も極小化し、基層社会からは遊離する「専制と放任が併存する」社会だった(桑弘羊や王安石の政策は民事不介入の原則から批判を浴びたほど)。人々は法共同体として自己完結していない中間団体である村やギルドにも身を任せることができず、社会の流動性も増す中で、人々を支えたのが「幇の関係」だった、と(p.179)。

 幇は互助的な組織・結社・団体で秘密結社を指す場合もあるが、人々は信頼の置ける仲間を頼り我が身を守ったことが、中国史を学んでいく際の重要ポイントだ、と。

[おわりに]

 基本的人権や所有権、法治主義などは複数の法共同体間で協議・調整が行われた上で決定される合意形成過程が必要。西欧において議会制民主主義の基礎となった議会は、身分制に基づく団体が集まったものであり、身分制と議会制は相性が良かった。しかし、中国では世襲的身分制の解体が戦国時代から始まっていた。これが日本や西欧と近代化の分岐の違いを生んだ、と。

 科挙は「誰でもなれる」「なれば万能」だが、当事者内部からはその仕組みを解体する動機は生まれず、21世紀の中国でもエリートによる支配と民間社会での「人つなぎの論理」も変わらない、と(p.186)。

[あとがき]

 「幇の関係」によって、中国人とふれあえば皆が感じるであろう「不羈の気風」や「友を大切にする熱さ」と「規制もないが保護もない」中国社会との関連性が見えやすくなったのではないか、と。

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