『グレート・ギャッツビー』とYale
月組公演『グレート・ギャッツビー』のリスケされた初日が近づく中、村上春樹版を読み直してみました。
正直、原作も映画もあまり印象にないというか、だいたい小説はニガ手なので、『偉大なギャツビー』は大昔に放り出したし、読み終えたのは村上春樹版。でも、自分の読書Blogにも書いてない。映画『華麗なるギャツビー』のロバート・レッドフォードは語尾に"Old sport"をつける話し方などが好きだったのですが、デイジーがミア・ファーローじゃね…みたいな。バズ・ラーマン監督版も正直、あまり印象が残っていないので、見直してみようかとは思っていますが、宝塚版も月組のを観ただけですが普通だな、という感じでした。
ということで先日、タカラヅカ・ニュースで朝霧真くんの出た稽古場リポートもあまり期待せずに観ていたんですが、演じるジョンという役はブキャナンの遊び友達で、潤色・演出の小池先生が今回新たに作った役だったと知ったことから俄然、興味が出てきました。小池先生の潤色は、原作に補助線を引くことで、作品の意味みたいなものを浮かび上がらせることが多いので。『Once Upon a Time in America』も労働争議という補助線をクッキリ引くことで、実はギャングの話しではなく、ジミー・ホッファという怪物労働運動家の話しであることを浮かび上がらせていましたので、『グレート・ギャッツビー』もドッグイヤーしたところを中心に読み直してみようと思いました。
そこで感じたのは今回の31年ぶりの大劇場版『グレート・ギャッツビー』に小池先生が引いた補助線はイェール大学なのかな、と。
ブキャナンと3人組の出身大学はイェール。ブッシュ大統領も卒業した金持ちのための大学で、最近の新入生の7割が裕福層出身というスーパーリッチの子どもが歓迎される名門大学。だいたい世界でも有数の資産家であったエライヒュー・イェールから寄付を受け改名したぐらいなわけで、ハーバードに次ぐ約300億ドルの資産を持つ、と。
ちなみに、稽古場情報によると新たに創造した3人の少人数口の芝居には金持が貴族っぽく振る舞うのが周りからみるといかに滑稽にみえるか、というナンバーがある、とのこと*1。朝霧くん曰く「3人の友人はみんな背が高く、ブキャナンを含めて背が高い生徒が選ばれた」とのことでハッとして、改めて読み直してみるとブキャナンはイェール大学卒で、アメリカンフットボール選手として活躍し、その時が人生のピークだった、と。NYの屋敷には全米代表として活躍した時のトロフィーや賞状などを飾ってるみたいですが、アメフトはハーバードやイェール、原作者フィッツジェラレルドのプリンストンなどアイビーリーグで発展したスポーツだといいます。ちなみに、ブキャナンはアメフトでエンドをやっていたとのことですが、オフェンスで最も背の高い選手が選ばれるがエンドというポジションです。とにかく、今回はそうしたリッチが集まる大学で派手な学生生活を送ったエリートたちの場面を多く描くことで、灰の谷に住むウィルソン夫妻などとの対比を際立たせようとしているのかな、とか。
ちなみに、フィッツジェラルドはプリンストン大学出身ですが、作中人物はなぜかイェール出にすることが多いんです。原作はニックの回想として描かれていますが、ニックもイエール大学出身*1。村上春樹の訳者あとがきを読むと、生まれつきのエリートであるブキャナンは、成り上がり者のギャッツビーのわざとらしい立ち居振る舞い、派手な服やクルマの趣味などがいちいち気にくわないんですが、同じイェール出身でもギャッツビーと同様、ヨーロッパでの従軍経験のあるニックはギャッツビーの境遇に同情するみたいな構造があるのかな、とか。
といいますか、フィッツジェラルドは初めて成功を収めた『楽園のこちら側』でも「ビッグ3」と呼ばれるハーヴァード、イエール、プリンストンについて語っています。主人公のエイモリーには「プリンストンに行きたい。ハーヴァードの学生はめめしく、イェールの学生はブルーのセーターを着てパイプをくゆらせている感じだ」と語らせています(「ブルーのセーターを着てパイプをくゆらせている」という比喩は、直感的にはわからないんですが金持ちのいけすかない奴が多いという感じでしょうか?)*2。
また、ハーヴァード卒を主人公にしている作品には『ベンジャミン・バトン』があります。この作品で歳を重ねるごとに若返っていくベンジャミン・バトンはハーバード大学に入学し、大学のフットボールで彼は大活躍するんですが、それは考えてみればそれは『ギャッツビー』のブキャナンとパラレルの関係。
ブキャナンのキャラクターをSFチックにしたら『ベンジャミン・バトン』になるのかな、というかフィッツジェラルドの作品というのは、ビッグ3に固執している感じ。フィッツジェラルドはエリート学生の「リア充」な生活を描いて、「ビッグ3」出身のエリート青年に対する冷静な観察者だったのかもしれませんが、そうした意図とは逆に、こうした金持ちのエリート青年の生活に憧れる貧乏学生の読者を得ていたのかもしれません。
ぼくはフィッツジェラルドの作品がまだ読者を獲得しつづけていて、映画化も定期的にされるという理由があまりよくわからなかったんですが、こうした現世的な理由もあるのかな、と。少し古い作家ですが、フランソワーズ・サガンの主な読者は「お針子」だったという話しを聞いたことがありまして、そういうものなのかな、と(もちろんサガンの作品は新たな読者を獲得し続けているとはいえないので、フィッツジェラルドにはやはり作家としてのすぐれた要素があるんだとは思いますが)。
ちなみに短編『泳ぐ人たち』には、アメリカ人はヒレを持って生まれてくるべきであり、金と教育は世間を泳ぎ回ることのできる一種のヒレではないか、みたいな箇所があったと思いますが、実はみんなヒレがほしいわけで、それを小説の中だけでもかなえてやっていたのがフィッツジェラルドの作品の一面にはあるのかな、とか。
*1 ♪俺たちの祖先が この国を開拓して 百五十年前 独立した
安い 移民の労働者 仕事与えて 発展した
ヨーロッパは戦争で 落ちぶれた
今じゃ アメリカが 世界一 豊かな国に(作詞:小池修一郎)
*2 イェール大学出身のニック・キャラウェイは、三章で会社がひけたあと「イェール・クラブ」に行って夕食を取り、食後そこの図書室でしばらく経済学の勉強をしていたとしてます(I took dinner usually at the Yale Club--for some reason it was the gloomiest event of my day--and then I went up-stairs to the library and studied investments and securities for a conscientious hour.)。ちなみに「イェール・クラブ」はイェール大学の卒業生と教職員のためのプライベート・クラブで、グランド・セントラル駅の真ん中に今でもあるようです。
*3 翻訳書がないので私訳です。原文は以下の通り。
“I want to go to Princeton,” said Amory. “I don’t know why, but I think of all Harvard men as sissies, like I used to be, and all Yale men as wearing big blue sweaters and smoking pipes.
― F. Scott Fitzgerald, This Side of Paradise
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