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荷風の西班牙風邪

瀟瀟と降る雨に荷風の『雨瀟瀟』を思いだし再読。

《長年使い馴れた老婢がその頃西班牙風邪とやら称えた感冒に罹って死んだ。それ以来これに代わるべき実直な奉公人が見付からぬ処からわたしは折々手ずからパンを切り珈琲を沸わかしまた葡萄酒の栓をも抜くようになった。自炊に似た不便な生活も胸に詩興の湧く時はさして辛くはなかった》という箇所で『断腸亭日乗』を思いだす。

『断腸亭日乗』ではスペイン風邪について「長年使い馴なれた老婢」が死んだことについて書いているのと、自身も罹って一命をとりとめたと書いてのが2ヵ所ぐらいあったんですが、この「老婢」の死はショックだったんだな、と。

ちなみに荷風自身の症状はこうした経過をたどっています。

1920年(大正九年)
正月十二日。曇天。午後野圃子来訪。夕餉の後忽然悪寒を覚え寝につく。目下流行の感冒に染みしなるべし。
正月十三日。体温四十度に昇る。
正月十四日。お房の姉おさくといへるもの、元櫓下の妓にて、今は四谷警察署長何某の世話になり、四谷にて妓家を営める由。泊りがけにて来り余の病を看護す。
正月十五日。大石君診察に来ること朝夕二回に及ぶ。
正月十六日。熱去らず。昏々として眠を貪る。
正月十七日。大石君来診。
正月十八日。渇を覚ること甚し。頻に黄橙を食ふ。
正月十九日。病床万一の事を慮(おもんぱか)りて遺書をしたゝむ。
正月二十日。病况依然たり。
正月廿一日。大石君又来診。最早気遣ふに及ばずといふ。
正月廿二日。悪熱次第に去る。目下流行の風邪に罹るもの多く死する由。余は不思議にもありてかひなき命を取り留めたり。
正月廿五日。母上余の病軽からざるを知り見舞に来らる。
正月廿六日。病床フロオベルの尺牘を読む。
正月廿七日。久米秀治来訪。
正月廿八日。褥中全集第四巻校正摺を見る。
正月廿九日。改造社原稿を催促する事頗急なり。
正月三十日。大工銀次郎来談。
正月卅一日。病後衰弱甚しく未起つ能はず。卻て書巻に親しむ。
二月朔。臥病。記すべき事なし。
二月二日。臥病。
二月三日。大石君来診。
二月四日。病床フオガツアロの作マロンブラを読む。
二月六日。唖〃子来つて病を問はる。
二月七日。寒気甚し。玄文社合評会の由。
二月九日。病床に在りておかめ笹続篇の稿を起す。此の小説は一昨年花月の廃刊と共に筆を断ちしまゝ今日に至りしが、褥中無聊のあまり、ふと鉛筆にて書初めしに意外にも興味動きて、どうやら稿をつゞけ得るやうなり。創作の興ほど不可思議なるはなし。去年中は幾たびとなく筆秉らむとして秉り得ざりしに、今や病中熱未去らざるに筆頻に進む。喜びに堪えず。

長年、使えてきた「召使ひたる老婆」の死に接したのは、その前年の1919年(大正八年)の五月。

五月三十日。昨朝八時多年召使ひたる老婆しん病死せし旨その家より知らせあり。この老婆武州柴又辺の農家に生れたる由。余が家小石川に在りし頃出入の按摩久斎といふものゝ妻なりしが、幾ばくもなく夫に死別れ、諸処へ奉公に出で、僅なる給金にて姑と子供一人とを養ひゐたる心掛け大に感ずべきものなり。明治二十八九年頃余が家一番町に移りし時より来りてはたらきぬ。爾来二十余年の星霜を経たり。去年の冬大久保の家を売払ひし折、余は其の請ふがまゝに暇をつかはすつもりの処、代るものなかりし為築地路地裏の家まで召連れ来りしが、去月の半頃眼を病みたれば一時暇をやりて養生させたり。其後今日まで一度びも消息なき故不思議の事と思ひゐたりしに、突然悲報に接したり。年は六十を越えたれど平生丈夫なれば余が最期を見届け逆縁ながら一片の回向をなし呉るゝものは此の老婆ならむかなど、日頃窃に思ひゐたりしに人の寿命ほど測りがたきはなし。

ここの箇所は印象に残っていたらしく、最初に読んだ岩波文庫版の『断腸亭日乗』でも線を引っ張ってありました。逆縁ながら一片の回向をなし呉るゞものは此の老婆ならむか…あたりは荷風の孤独が珍しくストレートに伝わってきます。

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