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『悪党たちの中華帝国』岡本隆司、新潮選書

『悪党たちの中華帝国』岡本隆司、新潮選書

 雪組公演『蒼穹の昴』のモデルである梁啓超と康有為のことが載っているので、さっそく2人のところだけ読んでみました。康有為は過激な教えを説いて柔軟性に欠け、梁啓超は独り善がりな改革者だった、みたいな。

[康有為]

 『蒼穹の昴』ではなぜかカン・ヨウウェイとマンダリンで呼ばれる康有為ですが、何が過激な主張かというと、孔子が春秋時代に制度を改めた改革者でありイエスのような教組であったという考え方。これのどこが過激かというのは本場の儒教文化から遠い日本ではなかなか理解しづらいと思いますが、後漢以降に定まった解釈によると、孔子は《かれ以前から存在したはずの、あるべき教義・理想の体制、いわゆる「先王の道」を祖述継承した人物》となります。そうした考え方は、清朝が実現した平和・好況の百年という政治・経済的ベースの上で発展した文献学的な「漢学」によって実証的にも強化されるのですが、阿片戦争以降の危機の中、支配の根拠となっている儒教的定説を疑う機運が高まり、後漢以前はどうなっていたのかを追求しようとして、前漢時代に成立した「公羊学」に注目が集まりまった、と。そして「公羊学」によれば、儒教は孔子が新たにつくったものであり、改革は悪ではない、ということになります。

 康有為が科挙の最終試験を受けたのは日清戦争さ中の1895年(ちなみに科挙の主席合格者は状元といい、『蒼穹の昴』の主人公・梁文秀も状元ですが、1894年・光緒20年の状元であった張謇は合格後も官職に就かず、地元である江蘇省南通で実業救国を掲げて綿紡工場を開設して軌道に乗せています)。東洋の小醜・欧米の猿マネと小馬鹿にしていた日本に負けたことは中華帝国のエリートたちにとっては驚天動地の事態で、変革を目指す動きの中で康有為は日本をモデルにした制度改革「変法」をリードすることになります。康有為はそれまでの科挙突破のための塾ではなく、西洋事情の教育学習を目指して湖南省に湖南時務学堂を設立、そこに招聘されたのが梁啓超で、譚嗣同と共に「平等」「民権」「孔子紀年」などを講じます。梁啓超たちは地元の反発を受けますが、湖南省からはやがて毛沢東が生まれる、と。

 康有為は度重なる上申を行い、光緒帝のイニシアティブもあって、科挙廃止、行政機構の再編など巨大なプランを実行するのですが《軽薄》な康有為、《慎重な思慮の足りない》光緒帝というコンビに官僚たちはサボタージュで応え、それに対抗する形で光緒帝は弟子の譚嗣同らも側近として登用するなど事実上の宰相に任命します。康有為は袁世凱に頤和園を包囲攻撃するよう密謀を企てますが、袁世凱は西太后と永禄に密告。

 康有為はさらには北京訪問中の伊藤博文を顧問にすえることまで考えますが、伊藤博文は康有為の試みを軽躁とみて取り合わなかったのですが、西太后はいったん事態を抑えようと紫禁城に帰還。密謀の確証を得て「変法」派を処罰。譚嗣同は処刑、康有為と梁啓超は日本に亡命します。顧問に据えようとした伊藤博文には袖にされ、頼みの袁世凱には裏切られと、やはり実務には向かない康有為でした。

 亡命した康有為は曹操に殺されそうになった漢の皇帝が救出を求めた密命「衣帯の詔」になぞらえた光緒帝の密命を持っているというパフォーマンスをしたり、自分は正しかったという宣伝活動に励んだりして、孫文らの革命派と対立します。

 それと儒教理解では、中華帝国における儒教とは万人の信仰ではなく、一部の士大夫が身につけるもので、社会は大きく断絶していたというのも大切。最後に記されている宮崎一定による康有為の言葉は《思想家の独善・軽率・楽観をよくあらわ》していると思います。

[梁啓超]

 『蒼穹の昴』の主人公、梁文秀のモデルは梁啓超。自ら《康有為は定見がありすぎ、梁啓超は定見がなさすぎた》と『清代学術概論』で書いているのには驚きました。実際に伊藤博文によって助けられたんですが、伊藤は老成した康有為の独善軽躁には冷淡だったものの、梁啓超は「偉い奴だね。実に感心な奴だ」とその専心献身を好ましく思っていたといいます。そして、梁啓超は日本をテコに中華帝国を変革した、と。

 梁啓超は亡命先の日本で、邦訳された西欧の著作を「和文漢読」で学び、和製漢語を積極的に取り入れたといいます。「鉛筆」などの実用語も含めて今の中国語にも和製漢語は多く取り入れられていますが、思想の分野では梁啓超の役割も大きかったんでしょうかね。そして、魯迅や毛沢東も梁啓超を学んだ、と。

 そして、有名な『中国史叙論』で「吾人がもっとも慚愧にたえないのは、わが国には国名がないことである」として王朝名や支那という呼び方ではなく、自尊自大の気味はあるが「中国」がよく、歴史も「中国史」としてとらえるべきだとして「中国何千年の歴史」という言葉に代表されるナショナル・ヒストリーの考え方を拡げていった、と。

 その後、東洋の立憲が専制の帝政ロシアに勝った1905年の日露戦争を経て、清朝政府も立憲制を導入する準備に入りますが、早急に集権化を進めた結果、各地の不満が高まり、1911年の辛亥革命が勃発、中華民国が成立。梁啓超は帰国し、「紅血の革命」よりも「黒色の革命」(インク=言論)を主導。革命派の国民党と対立する袁世凱率いる進歩党を組織します。その後、袁世凱が帝位を望んだことには反発し、袁世凱を討とうとしますが、袁世凱は死去。師匠の康有為は、辛亥革命で退いた溥儀の復位を目指しますが、これにも反対。第一次世界大戦後のパリ講和条約には私的顧問として参加。本国に送ったその内容は反帝国主義の五・四運動を引き起こします。

 こうみると、なにか中途半端な印象を与える生涯ですが、誠実に「彷徨模索」を続けた、というのが岡本さんの評価でしょうか。

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