見出し画像

『陸海の交錯 明朝の興亡』壇上寛、岩波新書

 シリーズ中国の歴史もいよいよ4巻目。まとめとなる「あとがき」によると、本書は宋以降の1)中華と夷狄の抗争2)華北と江南の南北の対立3)草原を含む大陸と東南沿海の海洋中国の相克が元末で交錯して中国社会を激しく揺さぶり、その対応を迫られた明代を描きます。残念ながら、3つの対抗基軸を一元化するモチーフは儒教の論理だけで、極度に統制が強められたのみだったわけですが。

 地球規模の寒冷化による災害・飢餓や社会動乱・戦争が続けざまに起こった14世紀と17世紀の狭間にあるのが明という時代だった、という書きだしからうなりました。

 中国では士大夫の行動は礼によって規定されますが、それは一般庶民が守れるようなものではないため、庶民には法が適用されてきました。それは《漢代に儒教が国教化されると、従来儒家の排斥してきた法(刑)の行使が、徳の通用しない小人に対しては容認された》というものだった、というのも「そういう理屈だったのか!」と納得がいきました(p.30)。ここから、庶民を統制する刑罰は、礼の徳を備えているとされる士大夫には無縁ということで植力者は法から解き放なたれ、庶民には刑が押しけられるわけですが、中共でも幹部に対する処罰が苛酷なのは、「礼」を備えているにもかかわらず法さえも守れないのであればより厳しく罰せられるからなのかな、と(もちろん、それも恣意的に運用されるんでしょうが)。

 明代だけを扱った新書は初めてということで、正徳帝の逸話とかもっと書いてほしかった。正徳帝は今で言う発達障害じゃないかと思うけど、歴代皇帝の中でも現代的なルックスで好き。若くてヘンでカッコ良いから大衆に人気あるし暴れん坊将軍のモデルになったんだろうな、と。それにしても明朝は吃音で年増好きの成化帝とか(p.135)、礼制マニアで経済というか交易に理解示さず、モンゴルや倭寇を凶悪化させた嘉靖帝とかヘンな皇帝が多いな、と。

 後半はモンゴル帝国の総括と、銀経済の発展によって海洋貿易が盛んになり、それが倭寇と秀吉による災難を生む、みたいな流れでしょうか。

 また、中国は草原の果てでモンゴルによってユーラシアとつながるわけですが、海洋の果てに日本列島ともつながったのかな、とも感じました。もちろん、海の果ての蕃国という意識はあったんでしょうが、そんな文化果つる国から征服の意図をもたれたんですから。

 西洋式小銃もポルトガル人が将来したが中国では精妙に模倣できず、日本で改良された火縄銃が倭寇経由で伝えられた、というのは知りませんでした(p.176-)。秀吉軍から日本兵と新式鉄砲を得た明軍は、遼東のジュシェンや西南地方の少数民族の反乱鎮圧に利用したんですが、やがて、そこから勃興したヌルハチが清王朝をたてるわけで。また、秀吉軍の強さはスペインなど西欧列強が日本の植民地化を諦めるきっかけになったというのも、改めて実感しました。なにせ、秀吉軍は破竹の進軍でソウル、平壌を落として王子2人を捕虜にしてしまう強さ。秀吉軍に対して明軍は切り札ともいうべき東北の雄、李成梁の長子李如松の軍団を投入するんですが、李如松は平壌で小西行長軍を破ってソウル奪還を目指すものの、その手前で大敗北、完全に戦意を喪失させられてしまいます。

 それにしてもの秀吉の世界制覇プランは気宇壮大(p.180)。昭和陸軍と秀吉ぐらいじゃないのかな、こんなのはw

 モンゴルの制覇によってユーラシア大陸規模でヒト、モノ、カネ、情報が還流することになり、帝国崩壊後もオスマン朝、ティムール帝国、ムガール帝国、明・清のほとんどがチンギスハンの血統かモンゴルの権威を後ろ盾にした、と。しかし、その中で明だけはモンゴル色を排した、と。

 明は南から興って全国を制覇、しかも、遊牧王朝を倒した唯一の王朝だったというのもなるほどな、と。ここまできて、『中世史講義【戦乱篇】』高橋典幸編、ちくま新書で文禄・慶長の役を日本の軍事力をみたスペインが植民地化を諦めたという功績を見直す評価もあるというのが気にかかり、あらためて明側からみた文禄・慶長の役はどうだったかをまとめてみると…。

 秀吉軍が鉄砲の力で緒戦を圧倒した後、平壌で明軍に敗れたものの、ソウルを目の前にして小西行長が再び虎の子の明軍を返り討ちにあわせたことで文禄の役も講和の機運となります。ここで万暦帝は秀吉を柵封する時の称号を国王より一段下の「順化王」(天子の徳化に順う王)にするとダダをこねたのですが、結局、国王を与えることに。しかし、どうしても気が済まなかった万暦帝は足利義満に下賜した九章冕服よりワンランク下の皮弁冠服だったというのがなんとも微笑ましい。

 明側の使節を大阪城で謁見した秀吉は、小西行長らが騙した思惑やそれに乗った《明側の思惑を知ってか知らでか明の冠服を身につけて万歳を唱えるなど、いたく上機嫌であった》(p.184)というのも初めて読んだ解釈。

 また、諸大名も都督や都督同知などの官職を得て、冠服も賜った、と。これは朝鮮出兵で揺らいだ支配秩序の引き締めに明の権威を利用したためで、だから勅諭や誥命も後生大事に残された、という説明は納得的。

 しかし、貿易が認められなかったことで面子が潰されたことに怒り秀吉は再出兵。その慶長の役は朝鮮、明、東南アジア、インドまでを征服しようとした気宇壮大な文禄の役と違って、朝鮮南部への報復に矮小化されたもので、それが豊臣軍事政権の限界を示し、秀吉はヌルハチにはなれなかった、という結論もなるほどな、と。

 逆に明をはじめ中国歴代王朝は常に遊牧民族からの侵入を受けていて、それと戦って、なんとか講和して、華夷秩序という虚構で自分たちの面子は保ってきたんだろうな、と。だから、屈辱的な講和を受ける時もあるけど、列島の支配者は白村江の時も元寇の時も「生か死か」で柔軟性が欠けるというか、交渉力が磨かれてこなかったんだな、と。

 と同時に、銀の流通が活発化した中でのスペインのマニラ建設がグローバル経済の端緒とみなされる(p.223)ようになった今、明をあれだけ苦しめた秀吉の軍事力は、スペインをして征服しようとする気を失わせたのは、ひとつの評価だよな、とも改めて思いました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?