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”シャニP”という「  」について

 シャニマスには様々な学派が存在する訳ですが、その中でもかなり人によって考えが変わってくるものの代表格として、シャニP学概論があると思っています。

 うろんな一言からはじめました、うろんな内容ですのでご注意ください。


 シャニマス公式のキャンペーンで数多くの記事が生まれ、いやぁ色々と読めて嬉しいなぁと思っています。眺めるだけで満足してるししばらくはいいかな、とか思っていたんですが、なんか書いてた。
 なお、正解とか間違いとかないものを、うだうだ筆者目線で勝手に語っているだけですので、全ては個人のなんかそういうふわっとしたやつです。

=、≠、≒

 シャニPという存在を考える上で、「シャニPはプレイヤーの分身なのだろうか?」というのがまず一番最初にぶつかりそして一番意見が分かれる部分ですよね。ざっと知り合いやら自分自身の脳内をかきわけてみても

  •  シャニPは俺だよ派(シャニPプレイヤー派)

  •  シャニPは俺じゃないよ派(シャニPキャラクタ派)

  •  シャニPにとりついた亡霊だよ派(選択肢重視派)

  •  シャニPは俺じゃないけど声優さんにプロデューサーさーんと手を振られたら全力で俺がシャニPだの顔をするよ派(コウモリ派)

 などがありますよね、なお私は最後のコウモリ派です。
 これらはどれも間違いはないです、どう考えてもいいように作ってあると思っている。まぁそのことによって弊害も生まれてしまうんですが。

 アイマスという大きな枠の中では割と珍しく、シャニはシャニPという存在を別個のキャラクタとして見ている人の割合が多いのではないかな?と、極めて個人的な感覚で感じています。
※ただ、私が割とそういった目線に立っているからこそ、類は友を呼びそういった人間の集団に属してしまっている……という感覚もまたあります。

 その感覚は、「明確に男性と言い切っている・顔は写らないとはいえガシャなどで描写される成人男性姿がある」が一点、さらには「学生時代の同級生との同窓会に行くなども含め、ストーリーの中で能動的に動くことが多い」ことが大きいかなと思っています。
 またこちらはシャニPキャラ派己派どちらにもですが、シャニマスはアドベンチャー/ノベルゲーに似ているがそのものではない、こと。つまるところ、会話における選択肢を選ぶことはあるが、それによって大幅に物語そのものが変容することはない、ことも感覚として影響があるかと思います。
 運命の強制力が割と強めなんですよね、選択肢によって運命/結果が大きく変わるのではなくて、選択肢によって見える角度が少し変わるだけで全体は変わらないという構造上からもたらされている感覚もあるかと思います。

シャニPというキャラクタの”ブレ”

 シャニPという存在をキャラクタとしてとらえるとすると、彼って一定の個性を超えないようにしてあるよね、という部分が立ち上がってきます。
 シャニPをプレイヤーの分身として描く道を残している以上、絶対的にこういった淡泊さ、一定の個性を超えないようにすること、が必要になるわけです。プレイヤーはそれこそ千差万別ですから、特定の誰かであってはいけない。

 しかしたまにそこからはみ出る部分が生まれているのも事実。これを”ブレ”と呼ぶとマイナスに聞こえるかもしれませんが、個人としては多少のブレがあったほうが人間らしくなるという感覚が強くあります。
 それはぶっちゃけてしまえば”ライターの手癖”とも言えるかもしれない、イルミネのシャニPが遠い目をしがちとか、アンティーカのシャニPがなんかこいつかわいいことするなという行動をしがちとか、実はそういったちょっとしたシャニP描写の違いが、色々な所で結構あります。そういったちょっと足が出た部分を、味がするなぁ~!なんていいながらしゃぶっているタイプの人間もいます(わたしです)。

 ただし、そう、ただし、この感覚の話は、……シャニマスというものを全体的に見ている感覚で見れば、という条件もあったりします。多様な楽しみ方がある上に、人生という有限の時間をどう使うかという命題において、特定のキャラ・ユニットだけ追うプレイスタイルの人もいるので、そういった人によっては割と画一的なシャニPの印象が出来ているかもしれないなぁとふと思っています。
 残念ながら私は全体を舐めしゃぶりたくなってしまうタイプなので、特定の情報のみから見た時の感覚は、めっちゃくちゃ頑張ってなぞってみないと難しいかもしれない。

移動する点P

 さて、ここまでシャニPに関してとりとめもなく、彼をどうとらえるのかということと、彼が我々に与えている印象について触れてきました。彼を彼として見ているのか、彼を私として見ているのか、どちらでも見れるようにしているからこその功罪があると思っています。

 例えば、
 シャニPキャラクタ派から見れば、おそらくは曖昧にしか決まっていないからこそ、彼という存在が鑑賞者の許容の外までブレた時に「私の知っている彼ではない」が発生する。
 シャニPプレイヤー派から見れば、自分が導くのだという責任をもって見ている目線がある以上、自分の思うことと大きく外れた言動に出た際に、「お前は何をやっているんだ」が発生する。
 ……など、なおこれらは絶対に同じ形式でもって発生する、というのではなくて、個々人の感覚に大きく由来しています。

 ええ、……上記で挙げた例、おや?と思われたと思います。
 そうです、上記の書き方は違うようでいて結果的に同じなんですよね。
 どちらも等しく、彼という存在に違和感を抱く瞬間は訪れる。それは内外という違いはあれど、等しく同じ彼を媒体としているからです。
 私の思う彼、であっても、私だったらこうはしない、であっても、結局のところ我々は、彼という存在に決して行動を間違えないで欲しいと祈っているという点で、同じ点Pを追っている。

 誰もが等しく祈る人(プレイヤー)だなぁと思っています。

シャニマスの主人公は「   」だから

 ――大好きなシャニマスの主人公だったら、みんなみたいに、なれるんだろうか……。

出典ではない

 シャニマスの主人公は誰なんでしょう?
 そういった問いをおいたとき、回答候補にシャニPという選択肢がたしかに上がってきます。私はシャニマスには明確な主人公はいない群像劇であるとも、主人公交代制の群像劇であるとも思っていますが、選択肢として脳内に彼の存在が浮かぶのは明白な事実です。
 人の数だけ「正しいシャニマス」があり、また人の数だけ「正しくないシャニマス」があり、様々な”シャニP”がそこにいます。
 違う誰もが違う彼に、けれども正解を引いて欲しいと祈ってそれを観測している。正しさに悩み、それでも正しいと思うものに手を伸ばす、我々が愛してならない彼女らに寄り添う彼もまた、我々は愛してしまっているんだなぁと思っています。

 個人的な希望として、シャニのアイドル達もシャニPも、人間らしくあってほしいと思っています。
 バッドエンドは許されず続けようとすれば永遠に続く、そんなソーシャルゲームという世界は、どこまでも我々の世界の延長にあります。時に悩んで、時に間違えて、完全無欠の存在ではない、世界は少し優しくて、でも厳しくつらい。
 それでも、正解を考えて、正解に手を伸ばして欲しい。私にとってのシャニマスの主人公は正しくありたいと願う人間だから

 まぁ、これは別にシャニマスだけでなく、全ての物語においてそうなんですけれどね。
 私はどれも大切にしたい、だからこそ批判も、称賛も、どれも等しくそれぞれの”我”から始まると思っています。※これはあくまで私の考えです。
 それにおいて、誰かがなにかを感じたことを否定は決してしません。けれど、言葉を選ぶ、表現を選ぶ、場所を選ぶ。そして果たして主張の内容は妥当なのかと考える。そういったことはやってこうよ、と思っています。※というか願っています

我思う故にシャニPあり

 我々が彼について祈るから彼が存在するみたいなデカルトめいた話から一直線に小学校の道徳までつながってしまった、正直お察し頂けているかと思うんですが、私のnote記事は全然練らずに打って即出しみたいな形式になっております。
 論考を整えるとかも全然やってない。ライブ感が全て

 つまり……色々考えた結果……「Xやめろ」になっちゃった結論が。負の感情を金にするXなんてやめろ、でも書き終わったnoteはXで宣伝します。
 Xやめてシャニマスをやろう。(宗教の誘い)


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