見出し画像

【23.12.7】エージェンツ【#パルプアドベントカレンダー2023】

本文章はこちらの企画でお送りしています。
ジンゴベッ!ジンゴベッ!セイントホーリーパルプ・フィクションイベンツ!グッドラック!


chapter1 苦役列車

「お兄さん、今日はもう電車は来ないよ」
「あぁ、コイツがね……離れてくれなくて」
 プラットホームのベンチにポツンと座り込んでいる男に駅員が話しかける。男の黒いロングコートの襟もとに輝く銀のバッジにギョッとした顔を見せた駅員だが、膝上で男の手にじゃれつく子犬を見て途端に表情をとろけさせた。
「うわ、こりゃあ立てないね」
 写真撮っていいかな、と随分とそわそわした様子の駅員に男が苦笑する。携帯端末を取り出した駅員が、じゃれる仔犬を数枚写真に収めて満足そうにしている。彼、いや彼女だろうか、にとっていいタイミングだったのか、仔犬も男の膝から地面へ降り立ち、尻尾を振りながらも尻をぬっと持ち上げるようにして前足と後ろ足をぐいと伸ばしたと思えば、くるりと踵を返して好き勝手に何処かへ走り去っていった。男はパンとズボンをはたき、ゆっくりと立ち上がる。
「やっとお役御免だ、……しかしいい手触りだった、駅員さんも撫でればよかったんじゃないか」
「いやァ……多分駄目ですよ、だってあの仔、仔犬とはいえケルベロスでしょ」
 逃亡疑惑で全身むしられるのはご勘弁ですよ、でも写真くらいはね。駅務を担当している獄卒は改めて男に感謝すると、ゆっくりと駅舎へ帰って行った。この時間、この奈落前鏡裏駅は地獄の亡者たちの姿もなく、閑散としている。待ち合わせ相手はまだ現れていないが、地獄の悪魔関係者が待ち合わせ時間丁度に現れるなんて勤勉なことは、ほぼ100%の確率でないため、男は気にした様子も見せない。印象の薄い顔つき、どこにでもいるようなさえない中年といった彼の、唯一特徴らしい特徴と言えば健康的とは言えない青白い顔色くらいだ。のっぺりとした印象の彫の薄い顔にアーモンドのようなつぶらな瞳は、どこかぼんやりと優し気な印象すら与える。男はのそのそと身体をほぐすように動いたと思えば、コートのポケットから煙草を咥えてマッチで火をつけた。胸の奥までじっくりと煙を吸い上げ、手元と口元から紫煙がたなびいていくのをゆったりと眺め、そしてぶらぶらと散歩を始めた。

 地獄。死後生前に罪を犯した死者が罪を償うために向かう場所として様々な宗教で描かれてきたこの場所は、近年完全にキャパシティオーバー状態だ。人間が愚かになったという訳ではなく、そもそも地獄と対になる天国の戸を叩く権利を持つ人間が少なすぎるという点で、制度設計が悪魔的であるといえた。根本的に問題があるのである。生まれてから死ぬまでの間に、ありとあらゆる生命を傷つけず生きるなんてことはどだい無理なのだ。それ故に、地獄の拡張工事はここ数千年間の超一大事業だ。現在の地獄の範囲内に地獄に落ちてきた死者、これらを労働亡者と呼ぶが、を逗留させ、亡者たち本人に自分たちの為の地獄の建造をさせている。
 当初は地獄を統括する悪魔や獄卒たちがそれらの監督をしていたが、いかんせん圧倒的に数が不足していた。そこで生まれたのが契約亡者だ。悪魔たちは選りすぐりの金の亡者を選び、亡者の雇用と会社設営の許可を与えた。地獄で発生する労働に支払われる金銭は、罪の軽減に支払うことができる。単位はインドルジェンス、贖宥である。ただし、悪魔が経営しているカジノやら商店やらで、折角溜めたインドルジェンスを消し飛ばす人間ばかりなのではあるが。この制度が今現在の地獄を大きく形作ることになった、つまり悪魔たちが味を占めたのだ、仕事を亡者たちに押し付けることに。
 金のバッジは経営権を与えられた人間だ、おおよそ生前から金の亡者として腕を鳴らしている筋金入りのクズである。男の胸元に光る銀のバッジもまたクズの証明と言える。悪魔と別の契約をした人間という訳だ、彼の仕事は地獄内の拡張工事とは方向性が異なっており、この場所にいるのも契約悪魔からの指示だった。シンジン オクル カガミウラ イケ、たったそれだけのメッセージが届いたのはもう三日も前のことだった。
 男が駅の外に出ると、拡張工事にこき使われる亡者たちの眠る粗末な亡者団地が立ち並ぶ街並みが広がっている。曇りの日のような薄明るいと同時に薄暗い世界に、どこかしら古めかしくくたびれた町の景色の中、途方に暮れた様に佇む若者が一人いた。真新しい黒いコートに胸元には銀のバッジが光っている。力強く跳ねている髪や、きりりと吊り上がった目じりに、童顔と言って過言ではないぱっちりとした二重、困ったように立ちすくんでいても顔のパーツ全てが意志の強そうな印象を与える若者だ。男とはまるで逆である。十中八九はこの若者がシンジンだろうと男は察したが、黙って煙草をふかしていた。目が合ったと思った時には、若者はズカズカと大股で男に近づいていた。
「あんた、使いか?」
「まぁ使い、と言われれば使いかもしれん、キミは東洋人?」
 そうだが、それが何かあるのかといぶかし気な若者に男は笑った。
「やつの言葉は粗雑な自動翻訳でできてるんだよ、ぼくたちの言葉もまぁそうなんだけども」
「はぁ、つまり?」
「よくそれでぐちゃぐちゃになるのさ、エージェントという意味ではぼくはやつの使いで間違いないし、ここに新人がいるから行けと言われてる、多分だがキミのことだろう」
 男は若者に背中を向けて、先ほどと同じようにぶらりぶらりと歩き出した。数歩進んだところで慌てた様に若者が男の後ろ姿に叫ぶ。
「使いを送るとしか聞いてないぞ! 俺はどうすればいいんだよ!」
「ぼくも別にここに来いとしか聞いてない、好きにしていいよ」
 聞こえたかどうかは定かではなかったが、若者は男についていくことを決めたようだ、走って男に追いつき、三日間も待つ場所もなく放置され続けたことに文句をつけている。男は聞いているのか聞いていないのかといった様相である。その様子にも腹を立てているのか、若者の文句は留まることを知らなそうだ。駅舎に入ってどうするかと思えば、我が物顔で線路に降りて行く男を見て、困惑した瞬間だけ文句が止まったが、えいと飛び降り直ぐに隣に戻った。線路上を二人の黒いコートを着た男たちがダラダラと歩いていく。線路の続く先、白く重い霧のような靄のようなものを掻き乱しながら、奥へ奥へと二人は進み、若者の文句の声は徐々に徐々に遠ざかる。奈落前鏡裏駅は普段通りの死んだような沈痛な静寂に戻っていった。

「そんで、あんたの名前はなんて呼べばいい、俺はこれから何すればいいんだ?」
 文句が止まったと思えば今度は質問攻めの様相である、男はひょいと肩をひそめてさぁ?とでも言いたそうなジェスチャーを見せ、若者は額に深めのしわをよせた。線路はとぎれとぎれになり、もうほぼ存在していなかった。白い靄は発光しているかのようで、周囲の様子はまるで分からない。若者は戻るにももう方向に自信はなく、男についていくしかない。土に変わった道をザクザクと足音を立てて二人の男は歩き続けていたが、前方に黒い影が見え始めた、黒い岩壁がボコボコと鋭い。やたらと高い崖に見えていたが、男が迷いなく進んだ先にあるものに、若者は目を見開いた。
 自然の岩壁のように見える部分に、人工的な扉がついている。白いペンキはところどころ剥げ、赤さびが浮いている。鉄製のようだ。男が丸い取っ手を掴み扉を開く。ひどく軋んだ酷い音を立てながら、こじ開けるといった様相で、しかし扉は開いた。
 扉をすり抜けた先は、先ほどまでの白く発行していたような景色とうって変わって、どこか古めかしいタイル張りの場所である。窓はなく、天井に蛍光灯はあるものの、ところどころ点滅している有様で薄暗かった。広くはない、入ってきた鉄の扉と、もう一つ奥に続く扉があるほかはなにもなかった。当然男はもう一つの扉に進んでいく、異様な雰囲気に若者は口を閉ざした。逆に一向に若者の文句にも質問にも答える様子のなかった男が、もう一つの扉に手をかけた状態で、そういえば、といった軽い様相で若者を振り返って口を開いた。
「やつとの契約状況は人によってかなり違うけど、キミはどこまで聞いてるんだい?」
「どこまでって、何も聞いてない、気がついたらあそこにいて、使いを待てと」
「……生きていた頃、今のぼくらのような格好の誰かと喋ったりは?」
 首を横に振る若者を見て、男はずっとどこかうっすら笑っているような柔和で平坦だった表情を始めて曇らせた。頭が痛いといった様相でドアノブにかけていない手で自分自身の後ろ頭を撫で上げる。心から気が重いといった様子でため息をついた。
「じゃあ本当に最初からか、うーん……どこから喋ったものかな、ぼくらの仕事は端的に行ってしまえば悪魔のエージェントになる、キミの地域だと使いと言うのかな? まぁ、なんでもいいが、正直なところただの体のいい悪魔の使いっぱしりってことだ」
 悪魔との契約のあかしとして銀のバッジが与えられるが、これの効力はシンプルに亡者でありながらも全ての権限を悪魔と同レベルに……男はそこまで喋って少し黙った。若者が話は聞いているが、どこかぼんやりとしていることに気がついたからだ。おそらく理解できないことは聞き流すタイプで、つまるところこの若者は座学は得意じゃないと見えると察した男は、事前の説明を諦めた。
「まぁいいか、ここから先が仕事場になる、いいかい」
「ウス」
 随分と大人しくなった若者の様子に男はじんわりと笑みを浮かべた、先ほどと違って特に抵抗なく開いた扉を通り抜ける瞬間、銀のバッジがギラリと強く光った。若者はその様子に目を丸め、自分も続いてその扉を越えた瞬間、胸元のバッジが光るのを感じていた。

chapter2 OJT

 音。
 最初の印象はそれだった。雑踏、歩く人々の立てる音、地下鉄の構内アナウンス、店舗から流れ出る宣伝文句、ごうと吹く風の音、地下鉄の線路が金属音を立てて鳴く。先ほどまでいた場所の痛いほどの静けさに、いつの間にか慣れていたことを若者は痛感し、耳から流れ込む情報のあまりの多さに反射的に片方の耳を抑えて顔を歪めた。経験の差なのか男は平気そうである。
「キミにとっては三日ぶりの現世かな、ぼくも三日ぶりだ」
 耳が慣れてきたのか、男の言葉に若者は辺りを見渡す、若者もよく知る世界で間違いなかった。向こうをあの世と呼ぶならば、正真正銘この世である。男の背後、どこか切羽詰まった顔で猛然と真っすぐに走ってくる学生が見えた、遅刻寸前なのだろう、かなりの速度だ。学生は真っすぐに男の背中に走り込み、そしてそのまま通り抜けた。すぐ隣で若者は信じられない顔でそれを確かに見届けた。
「今ので分かったと思うけども、生き返ったわけじゃないし、今は見えてないよ」
「幽霊ってことか? 足は……あるぞ」
 慎重に自分自身の足の存在を確認するように地面を踏みしめる若者を見て、悪魔のエージェントだってばと男は笑う。ゆっくりと地上へ向かいながら、地面に立っていられるように、この世のものに干渉できない訳ではないが、基本的にはあまり干渉しない方がいい、顕界すれば大抵の者は人間と同じく扱える。そう言って男は自動販売機で缶飲料を買って飲んで見せた。飲み干してゴミ箱に捨てる。
「なぁ、俺たちのこと見えないんだろ? ……今ジュースの缶が空中浮遊してたことにならないか?」
「そうならないように今は見えてる、そこを曲がったらもう一度消えるよ」
 もそもそと独り言のようにしながら返事をした男は、宣言通り角を曲がり実体化を解除すると、あからさまにわくわくとしている表情を隠せていない若者に釘を刺した。基本的には干渉をしないことと、好き勝手出来ると思わずに常に人間のふりを続けること、これだけは一緒にいる間は絶対に守れと念押しする。首を縦に振らせると、若者の胸元の銀のバッジを指さした。
「地獄に所属するものが地獄から逃れようとすると重大な罰を食らう、シルバーバッジがない限り全員ね、それにぼくらがこうやって人間にはできないことをやれるのもバッジがあるからで、魂はただの亡者のまま、契約で悪魔の能力を一部借りているという建付けになっている……覚えておくといい」
 改めてまじまじと胸元の銀の輝きを見ている若者の様子を見て、男は目を細めた。それじゃあ地上に向かおうとゆったりと歩き出した。階段を踏みしめて地下から脱すれば、燦々と陽の照る真昼である。

 吹き下ろすようにして吹き込む風は冷たいのだろう。人々はコートを着込んで足早に歩いている。
「今日は……12月の7日、冬は助かる季節だね」
「なにかあるのか?」
「人間だったことを全て忘れちゃいけないが、適度に忘れとくといい、キミは今寒い?」
「いや……」
 そういわれればといった表情の若者が自らの格好を見下ろす。真っ黒のロングコートは冬の装いに見えるだろうが、着ている感覚としては重みも感じず、ペラペラとして心許ない。コートの下は特にこれといった特徴のない白いシャツにスラックスにネクタイだ。陽が出ているとはいえ、外の様子を見るに、これでは普通は寒いだろうが、けれども若者は寒いとは感じていなかった。
「我々に暑いも寒いも関係はないけど、この姿のまま現れてもおかしくない季節ってだけさ、……さて、しょうがないから仕事を始めるとしようか」
 現世に戻ってからのいくつかの出来事で、面白くなさそうなおっさん、という若者の男に対する当初の心象はかなり変わってきていた。息を吸うように自然に悪魔の力をコントロールしている以上、この仕事を長くやっているはずで、けれどもそれでいて自由奔放、凪いだ態度はふてぶてしい印象すら与えるが、けれども言動に棘はない。改めて、柳のような男である。若者のまっすぐな視線を受けとめ、腕時計を確認した男はサラリと言った。
「ええっと今日は……木曜日か、21時までは何もないよ、好きにするといい」
 そう言い残して、男はどこまでも普通の人間の様に、スタスタと歩いてどこかへと去って行く、かと思えば、いつの間に顕界していたのか、少し先のパン屋に入っていった。肩透かしにあった若者は、パン屋のガラス越しに微笑みながら随分と楽し気にパンを選ぶ男を、憮然としながら見ていた。

「あぁいた、時間だよ」
 男が21時半ごろに若者と分かれた場所に向かえば、若者はきちんとそこにいた。時間は守るタイプらしい。若者は顕界し、しゃがみこんで紙巻煙草をふかしていたが、スウと溶けるようにその姿を隠した、顕界の仕方や消え方、現世の物へ干渉をする方法は、教わらずともどうすればいいのか自力で見つけたようだ。なるほど状況に順応するスジはかなりいいらしいと内心で男は若者の評価をジワリと上げた。姿を隠した後なのだが、捨てた煙草を踏みつける仕草をしてしまうのは慣習になってしまっているのだろう、若者の生前の生活が透けて見えるようだった。
「ウス」
 男が町の外れへ向かって歩き出し、若者がそれに付き従う、ここに来るまでの形が再び再現される。歩きながらの新人レクチャーが始まった。
 特別な指示がない限り、悪魔のエージェントたちは現世で活動しているが、それの殆どが人材探しである。悪魔たちが自分たちの手先として亡者たちと契約し、働かせるようになってから生まれた習慣や仕事は幾多もあるが、同時に問題も多数生まれていた。ゴールドバッジの民間契約亡者に、他の悪魔たちなど、悪魔同士の人材の取り合いがその一つである。地獄へ流れ込む現世全ての人間たちの中でも、契約可能な見込みがあるものはそう多くはない。どうやって先んじて欲しい亡者を獲得するのか。その結果、実質上の悪魔にとって使い勝手の良い、自由契約であるシルバーバッジエージェントの仕事として、スカウト作業の重要性が増していったということだ。
「人があぶれてるんだろう? 勝手に捕まえればいいんじゃないか?」
「悪魔と直接エージェント契約が可能な亡者には、一つの共通点がある」
 集合住宅の屋上、そろって煙草をふかしながら仕事内容についての話をしていた二人だが、ある部屋の灯りがついたのをきっかけに会話が途切れた。若者は興味深げに覗き込む、部屋の主は女のようだ、まだ若く見えるが、夜遅くに帰宅した彼女は随分と疲れた顔をしていた。荷物を放り出せば冷凍庫から取り出した作り置きを電子レンジに放り込んでいる。悪魔が注目するような人間には見えなかった。
「今なにかをするわけじゃない、むしろ今は何もないように……来るぞ」
 若者が寄りかかっていた手すりが音もなく歪んだ。慌ててたたらを踏んで若者はなんとか耐えたが、その横で男は抵抗することなく夜闇に落ちていく。男のいた場所に鉄パイプが振り下ろされ、そのままコンクリートへとなめらかに突き刺さった。
 異形、そうとしか呼びようのない何かの下半身は人に近く、頭は限りなくタコに似ていた。若者は反射的にタコ頭を殴りつける。骨の感触があった、思ったよりは人に近い、そう無意識に考えた瞬間に強い力で顔面を叩かれ、吹き飛んだ。痛みに硬直した身体は軽々と手すりを超えて、屋上から下へ落ちていく。駄目だ落ちる、無駄だと思いつつも若者は強い衝撃に身構え、そして思ったよりも軽い衝撃に何が起こったか理解できず困惑した。
「亡者を殴れるのは同じ世界に属するものだけだ、顕界しない限りはこの世のものにぼくらは強くは影響しないし、強い影響も受けない」
 先ほどまで二人が立っていた場所に佇むタコ頭を睨みつけ、その動きを見逃さないようにしながらも、端的に解説を挟んでいく。
 若者が理解できているかを確認する余裕は男にはなかった、これからタコ頭がどう動くかで二人にとっての今夜の仕事が決まるからである。タコ頭は二人が様子を見ていた女の部屋方向に跳躍する。男の低い舌打ちが響いたと思った瞬間、跳ね上がった男はタコ頭の飛ぶ高さに達し、組み付いていた。男が着ていた黒いコートがずるりと揺らめき意思を持っているかのように動き出し、タコ頭の首を締め上げる。タコ頭から伸びる足も男へと絡みつき互いを排除しようとしており、拮抗しているようだ。重力を無視して空中で均衡していた二人は、状況の打破を目的に重力に身を委ね、下へと落ちていく。地面へと落ちる寸前、弾かれるようにしてもつれ合いから離れた男は、若者の隣へ着地した。
「こっちだ! タコォ!!」
 男の手から投げられたネクタイが槍のように鋭くタコ頭に迫る、数本のタコ腕がそれを絡めとろうとして、逆にタコ腕が引き裂かれ、緑色の液体をまき散らしながら、千切れ弾け飛ぶ。
「AAAGHRRRR!」
 タコ頭の目が金色に輝き、痛みと怒りに耳障りの悪い咆哮を上げる。怒りからか、痛みからか、猛然と走り寄って来たタコ頭を寸前で男たちは避ける、つけた勢いそのままに背後にあった街路樹がタコ頭へ殴られて、ミシミシと音を立てて倒壊した。つまりタコ頭は顕界しているということになる、異形の姿をそのままにだ。男がもう一度回収したネクタイを投擲するが、怒りながらも記憶力はそう悪くないらしい、今度は回避されてしまった。片手でタコが引っこ抜き投げつけてきた街路樹の根元部分、切り株を、こちらもひょいと避ける。剛速球で投げられた切り株は工事でも始まったかのような轟音を立てて転がった。
「なんなんだこいつ」
「悪魔はどいつもこいつも非常に不条理でそして非生産的だよ、他の悪魔からの邪魔は意味なんてなくても発生する、もしくは……」
 小さな悲鳴が男たちの背後から聞こえた、作業服の老人は倒れた街路樹とその近くに佇む異形の姿を目にして、自失呆然としている。タコ頭は老人に瞬く間に迫ると、躊躇なくその拳を老人に叩きつけた。まるで砂で出来た城を崩すような容易さで、老人が”崩されて”いく。断末魔の叫びすら上げる余裕はなく、人であることを示す要素は繰り返し叩きつけられる拳に崩され、赤黒い液体にまみれた肉塊に変貌していった。返り血を全身に浴びたタコ頭がゆらりと振り返る、そこには喜びも興奮もなく、無機質な事実が横たわっていた。圧倒的な暴力に若者は口を閉ざし、逆に男は顔を歪ませ心底から面倒そうな声色を出した。
「こりゃ使い捨ての嫌がらせ専門人員だな……あまり近寄りすぎないで、最悪巻き込まれるよ」
 何に、という若者の疑問は発せられることは無かった、天から伸びる白い光がタコ頭を燦然と照らす。
 KABOOOOOOOM!
 落雷を疑うまでの光の爆発、白飛びする視界が落ち着いた頃、そこには胸を大槍で貫かれたタコ頭が苦し気に暴れていた。槍を掴もうとすれば炎に焼かれたように掴んだ場所が煙を立ててただれている。槍が静かに回転し傷口は常に刺激され、心臓の脈拍に合わせ緑の血液が噴水のように吹き上がる。槍の上には絵に描いたような天使が、教会の彫像のごとくに色のない表情で苦しむタコ頭を見下ろしていた。天使は男と若者を一瞥し、ほんの一瞬不服そうに眉を歪めたが、またすぐに色のない表情へ戻った。
 天使により、ズルッ、ズルッと音を立てゆっくりと槍が引き抜かれたが、タコ頭はまだ生きているのか、ビクビクとその身をよじり、跳ねさせ、苦しんでいる。徐々に動きが鈍くなっていくタコ頭が弱弱しくのたうっているのを見せつけられ、若者は先ほどの老人とタコ頭のどちらの死にざまがより不幸なのか、ということをふと考え、もう分からなくなっていた。老人とタコ頭、二人分の血を滴らせる輝く大槍を片手に、全てから背を向けて悠々と飛び去る天使を見ながら、男は悠々と紙巻きたばこを吸いだした。

「今から修正が始まるよ、最初の内は……ちょっと酔うかも」
 地面に足をついていられない浮遊感が若者を襲う、ぎょっとして説明を求めるように男の方を見れば、タバコをふかしたまま無抵抗に浮いている。脳を圧縮されているかのような体感したことのない感覚に顎を強く噛みしめたが、うめき声が漏れる。若者はかすむ視界の中、世界が歪むのを見た。

修正


 ふらつく感覚を覚えたまま、若者が再び地に足をつけた時、そこはタコ頭から叩き落されたはずの屋上であった。
「さっきのは」
「あと多分10秒くらい、…………ほら」
 部屋の電気がつく、疲れた顔をした女が、もう随分前だったように思える生活をなぞるように営んでいる。そもそも立っている場所へ突き刺さっているはずの鉄パイプも見当たらない、老人の肉塊が見つかって騒ぎになる様子もない、あまりにも静かな夜だった。チャリ、と小さな音を立てて男がコートの内側から小さな時計を取り出した。ぐるぐると逆回転をする文字盤がぴたりと止まり、その時間に腕時計を合わせ始める。
「12月7日、21時45分……30分程度かな」
 天使は心が狭い、いや心がないんだ、代り映えのない女性の生活をぼんやりと眺めながら、目を白黒させる若者に男は解説を始めた。
 悪魔に咎なくして殺された人間は、その殉教に報いて天国に送られるのがルールだが、天界はそれを良しとしていない。哀れな被害者ですら、本来であれば天界へ足を踏み入れることがないはずの、資格のない人間であるからである。厳格すぎる条件の元、真なる清廉潔癖を求める大いなる天界の意に従うため、悪魔が人を殺せば天使が悪魔を消去し、その悪魔以外の世界全てを巻き戻す。悪魔に殺害された事実ごと消すためだ。
「あのタコは嫌がらせだね、他の悪魔の足をいたずらに引っ張りながら、天使に不必要な仕事をさせるだけ」
「なんでそんなこと」
 若者の疑問に男は一旦答えず、悪魔が契約してぼくたちを働かせるのには天使の行動も関わっていて、悪魔本人、もしくは罪のない人間を弑した亡者の場合、それが目に入ればただただ問答無用で天使は排除にかかるが、現世に出てきているだけの亡者……つまりは今のぼくら、を裁くことはできないからであると補足を足した。その後、ぐるりと一回転首をゆっくり回し、悪魔は心がありすぎるんだよ、そう答え、怪訝な顔をする若者に男は笑いかけた。
「今夜はもうなにもないでしょう、お疲れ様」

chapter3 価値

 あの嵐のような一夜からしばらく経っていた。生前の知識で、一切の社会的身分がなくとも金さえ用意出来れば借りれる部屋など無数にあることを知っていた若者は、人間のふりをしながら現世で過ごすことに、すっかりと慣れ始めていた。あの掴み切れない気配の使いの男は、曜日ごとに見に行く場所を決めている様で、若者はなんとはなしに同行し、決められた数名の様子を確認するだけの暇な時間を過ごす日々だ。あの日はよく喋っていた男も、日によってはもはや暇そうに煙草をふかすだけで、一言も発さずに解散になったこともあった。あの夜、毎夜毎夜こんなことをやっているのかと、驚くと同時に内心ではどこか心躍らせていた若者にとっては、随分と平和的で肩透かしな日々である。あまりにも何もすることがない故に、若者は飽き始めていた。
 若者が間借りしている部屋の扉を叩く音がした。真昼間に訪問を受ける予定は一切なかった、セールスか泥棒かだろうと居留守を使うことを決め込んだ若者だが、扉からぬるりと現れた柔和な笑顔に心底驚くことになる。
「今日は予定が変わりそうだ、今から行くよ」

 ごく変哲のない雑居ビルの屋上に、その少年はいた。そもそも立ち入り禁止になっているはずの屋上だが、随分と悪知恵が働く者がいたらしい、鍵は都度壊され、ルールはもはや形骸化して久しいようだ。学生であれば学校で授業中であるはずの時間に屋上にいる割には、少年は大人しそうな風貌をしている。それはそのはずだろう、彼は彼の意志でここにいるというよりは、ここに来させられている状態だったからだ。体格のいいもう一人の茶髪の少年が立ちふさがるようにして、金網際まで少年を追い立てていた。高校生程だろう、大人にはなり切れない若さが両者から滲み出ている。
「なんだよ、用意できなかったのか?」
「……」
 ガシャン!と音を立て、金網が激しく揺れ動く、体格のいい少年が、沈黙を返した少年の肩を掴み思い切り金網に叩きつけたからだ。背中を圧迫された少年は息を詰めたが、うめき声も返答も声を上げなかった。肉体的には手も足も出ないが、気持ちの上では屈服していない少年の様子を見て、握った拳を強く引き、腹に叩きつけようとしたその時だ。
「おっと危ない」
 子猫でも運ぶように片手てひょいと少年を抱え上げたのは、ペラペラの黒いコートを着て青白い顔色をしたどこにでもいるようなさえない中年だった。茶髪の少年も一瞬信じられないような顔をしたが、それでもすぐさま全力で暴れ出した。けれども一切ぶれる様子もない、柳に風である。明らかに常識外れの目の前の光景に、武道の達人とでも言い出すのだろうかと、助けられた身でありながらただ茫然としていた少年は、そのさえない中年が金網へ息を吹きかけただけで、その金網がぐちゃりと外側へ歪む光景を見せつけられた。
「先に伝えますが、手を離したら、多分凄く痛いですよ」
 出てきてくれますか、と男が言った瞬間に、溶けるように別のコートの男が現れた。同じ黒いコートを着ているが、少年たちと同じくらい怪訝な表情をしている。
「いいですか、彼らのどちらが落ちてもあの天使が来ます、ぼくも君もただではすまない、絶対に落としてはいけません」
 にこりと眩しいまでに笑顔を浮かべた男は、ひょいとゴミでも捨てるような手つきで茶髪の少年を金網の向こうへ放り投げた。少年は何が起こったのか分からないといった驚きの表情で金網の向こうに飛んでいく。死へと向かう瞬間とするには、あまりにもぼんやりとしたあっけない表情だった。
「ちょっ」
「捕まえて、君はぼくが支えます」
 後から現れた若い男が金網の向こうの少年に飛びつき手を掴んだはいいが、その時点で二人とも金網の向こうだ、一瞬後に男も飛び出していた、片手にもう一人の少年を抱えてだ。
 金網が強い力で引き伸ばされ、ギャリギャリと聞いたことのないような音を立てていた。ガクンと急停止したものの、少年の足はいまだ宙をさまよっている。突然すぎて脳が理解を拒む状況に、少年は悲鳴も上げられず首も動かせず、キョトキョトと周囲の状況を眼球のみをせわしなく動かして確認していた。中年男が金網を片手で掴み、もう片方の手で少年を抱えている。じゃああの二人は落ちたのか、とよぎった瞬間に、茶髪の少年が漏らす引きつった泣き声が耳に届いた。恐る恐る下方向を覗き見て、遠い地面に背筋が冷えた。中年男のすねを若い男が掴み、若い男はもう片方の手で茶髪の少年の手を掴んでいた。
 少年は気づいていなかったが、中年男のコートの裾の片方が蛇のように若者の腕に絡みつき、締め付けていた。たすけて、たすけてという細く悲痛な声は茶髪の少年で、若者の手を必死に両手で掴んでいる。
「何なんだよこれ、オイ!」
 若い黒コートの男の罵声が響き、少年たちはつい肩を震わせる。怒りをぶつけられているはずの男性は一向に気にした様子を見せていない。風が吹くたびに、雑居ビルと雑居ビルの隙間に垂れ下がったこのよくわからない四人の雑技団は派手に揺れた。飲み屋ばかりが入った雑居ビルたちに、真昼の今は人の気配はない、救助が来るのは相当後だろう。
「安心してください、キミたちが今落ちて死ぬことになればぼくらも死んでしまう、ぼくはそれを望んではいません」
 そうすぐには落ちませんから落ち着いて、そう語る男のやけに落ち着いた声を聴き、少年は風にギシギシと音を立てながら揺れている現在の状況に順応しようとしている自分自身に驚いていた。先ほどまではそれしか聞こえていなかった若者の罵声とさらにその下からのか細い悲鳴が、遠く背景になっていく。
「キミにはいくつか選択肢があります、好きな方を選んでください」
 突如降ってわいた男の顔をまじまじと見たのは、この時が初めてだった、のっぺりとしてぼんやりと優し気な印象の顔に、小さくチャーミングな瞳、その瞳の虹彩が怪しく緑の混じった金色に光っていた。


 悪魔の襲撃やそれによる天使の巻き戻しに関しては、まぁ抗争のようなものなのだろうと納得していたが、こちらの命までも天秤に乗せ、ガキ二人をいたずらに脅す行為には一体何の意味があるのかは、若者にはまったく分からなかった。大人しそうな少年が、器用なことに男のコートを命綱のようにして守られながら、ゆっくりと降りてくるのが見えた、まさかこのまま下に行くのか?と思った時に、少年の下降が目の前で止まる。頼りなげに見えていたが、未だひいひいと泣き言を漏らしている茶髪より余程肝が据わっているかもしれない。少年と目が合うが何も言わず、小さく震える指がゆっくりと伸びる。そして若者の胸元の銀のバッジは、まるで紙を破るように簡単にほどけたコートの生地の一部ごと、少年の手の中に納まった。
 空間が歪んだ。天使の巻き戻しに似ているが、違うと感覚が告げていた。すぐ近くに発生した歪みから伸びてきた大きな手が、あっという間に若者の下半身をむしり取った。コートを使役してここから離れ実体化を解こうとするも、コートはピクリとも動かない。血に濡れ、若者を支えていた手がずるりと滑り、ついには茶髪が悲鳴を上げながら落ちていく。これは、一体、混乱の中、歪みからもう一度伸びた手が、今度は残された上半身を握りしめ、現世から地獄へと引きずり込む。寸前、ぼそりと呟いた男の声が耳に届き、若者は絶叫した。
「全ての力と権限はバッジに依ることは、ちゃんと教えたよ」


 悪魔に属するものは人を殺せない、殺せば天使に殺される。けれども、人間が人間に殺されるなら、それは天使からすればただの汚れた現実でしかない。そして、……男はここで一瞬言葉を止め、何か懐かしいものを思い出すようにして続きを口にした。
「悪魔と直接エージェント契約が可能な亡者には、一つの共通点があるんだ、……生前に自らの意志で殺人をした人物でなくてはならない」
 キミがあの日この少年を落とすことを決めたようにね。男が指さしたのは病院のベッドで押し黙って死を待つ、体格の良い少年、いや良かったはずの少年であった。確かに彼は不道徳なことを繰り返す、社会においてはきっと悪とされる要注意人物ではあったが、もうここに横たわっているのはただの哀れな被害者だった。聖なる夜を寿ぐ歌が街に流れ、煌びやかに輝く街と対照的に、その部屋は白く清潔で、そして死の匂いがした。
 ぼくらの仕事はほぼ詐欺師さ、才能のある人間と事前に契約しておくための、けれども才能を持つ人間というのが、困ったことにそう簡単に他人を殺してくれないものでね、少年の掌に光る銀のバッジを見て男は満足げに笑った。
「あなたも……」
 殺したのか?という言葉を口にするのがはばかられ、言いよどんでいたが、少年の瞳には確かに好奇の光がさしていた。男と少年が持参した花がエアコンの風に揺れ、興味を持っているかのように首をこちらに向けた。
「ずいぶん昔さ、愚かなぼくはね、弟をただの嫉妬心で殺し、そして悪魔と契約した、そう、”まるきり今の君みたいに”」
 ピーーー、少年に繋がれた機器が騒がしく鳴り響く、少年と男は慌てず騒がずナースコールを押してから、病室を後にした。廊下で慌てた様子の看護師とすれ違った。今頃体格の良かった茶髪の少年、後ろを歩く黒髪の少年の悪い弟は、そろそろ地獄の門にたどり着くころだろう。

 病院の外は爽やかな冬晴れだった、先ほどまで白いもので囲まれていたからか、色とりどりの世界と陽の明るさが目にうるさかった。ランチにパンでも食べに行こうか、そんなことをのんびりと語る男は、ふと立ち止まり病院を振り返った少年の背中に語り掛ける。
「後悔してる?」
「あぁいえ、その……後悔というより、ただぼんやりしてて」
「それは……大変よろしい」
 どこかはにかむようにして、うっそりと笑う少年の様子を見て、男は満足げに目を細めた。目線をあわせるように上半身を屈みこませ、少年の顔を覗き込み、告げた。

「ぼくの名前はカイン、君が死んだら、鏡裏で待ち合わせだ。」

明日は梶原一郎さんによる『サンタの面じゃなさすぎる』です、お楽しみに!飛び入りサンタも出るかもぜ!チェケチェケ!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?