平等だと信じていた同級生がVtuberになっていて感じたこと
*いろいろとぼかして書いています。
この前久しぶりに会った高校時代の友人から、ある同級生がいまはVtuberとして活動していることを教えてもらった。
もちろんその時、ある同級生なんて言い方ではなく実名を教えてもらったのだが、その名前を聞いて、顔とか話したことが思い出されて、(意外っちゃ意外だけど、やってそー)と思った。端的に言って、その子は独立心が強いタイプのオタクだったからだ。
家庭でいろいろ苦労しているらしかったが、それでいて努力を欠かさず、博学にして好奇心旺盛、大人びていたがそれでも同級生とのコミュニケーションを積極的に取ろうとしていた、尊敬すべき点しかないような人だった。今連絡は全く取っていないし、当時も外で一緒に遊ぶことはなかったものの、割と多く話していた。その子は生物学上の分類で言えば女性で、男性であったおれは話していると取り繕ってしまうこともあったが、ほとんどそうなることもなかったのは、彼女がさばさばしたところを多く持っている人だったからである。
(Vtuberかー、いいな。)
そのおれの声は隣にいた友人に聞こえていただろうか?
それとも聞こえないように胸の中だけに閉まっていただろうか?
別に嫌悪感があるわけじゃないが普段Vtuberのライブ配信はほとんど見ない。たとえばVtuber(とその視聴者)に向けられるヘイトとしては、現実で上手くやれない人間の逃避先だとか中身は所詮配信者上がりだとか数万円の赤スパが飛び交うなんて不健全だとか言われていると思うが、そういう書き込みを見かけるとそんなひどいこと言うなよと義憤や同情を感じるくらいだ。
でも、多分人並よりは自分はアニメにも配信にもこれまで多く時間を費やしてきたのだが(だから上記のヘイトは自分にも刺さる)、どうしてVtuberには食指が動かないのだろうと当然思うようになった。
アニメや配信(ここでは生身の配信者を意図している)と、Vtuberは何が自分の中では違うんだろうか。
これは正直、自分の矮小な部分を曝け出すことになるのだが、少しずるいなと感じているのである。
ちやほやされているように見えること自体がではない、露悪的に言えば「絵を被る」というその存在の仕方自体がずるいと感じる。どういうことかというと、彼ら彼女らが労せずして外見を変革し、その美麗さを得ていることに自分は妬ましさと呆れを覚え、そしてわずかだが嘲っている。
特別な話でもないが、俺の外見は優れていない、だがありふれた話だとしてもそれで自分は大いに悩んできた。特に高校・大学時代、青春と呼ばれるような時期にはその劣等のために恋愛が出来ないのではないかと思えて仕方がなく、ついぞ何もないままに欠落を抱えることになった。そして外見こそが人の第一価値なのではないかと惑い、今もその疑念を捨てられずいる。
また、その改善のために運動、美容室や流行りの服装、食事制限、歯列矯正・ニキビ跡治療などの努力を費やしてきた。もちろん自分勝手にやったことではあるが。
好感情ではないものをVtuberに覚えるのはこういう個人的事情のためであるとご理解いただけると幸いである。後述もするが、特定の活動者が嫌いだと感じたことはない。
しかし以上のようなおれの怨念には一見するだけでも、反論がいくつか思い当たることだろう。以下それについての回答を試みるが、自身では気づけていない論理的瑕疵があればご指摘いただければと思う。
まず些細な点では、美麗な絵を得るためには、実力あるイラストレーターに依頼するといったことが必要であり、労せずしてというわけではないということが言われるかもしれない。それに対しては二次元は二次元というだけで三次元の人間よりかはうつくしいとおれは考えている。どんな下手糞な3Dモデルだってその顔は綺麗な形をしているし、肌荒れは1つもないではないか。
だが、こういう反論はどうだろう。
「現在のインターネット上のサービスを使えばあなただって別に綺麗な絵を被ってVtuberになれるでしょう、でも人気は出ないしょうね、なぜならあなたは中身に魅力が欠けているようだから」
こちらの方は核心をつかれているように感じる。また現時点では返す言葉もない、というよりは歯切れが悪くなってしまう。じゃああなたの推しが明日から実写オンリーになっても推し続けられるんですか、と言い返すのはムキになってしまった極論の感がある。
本当に、このVtuberが嫌い!というのは自分の中にはない。
Vtuberの配信を普段見ないから、彼ら彼女らはよく知らない他人だ、というのもあるが、二次元自体は普段から嗜好しているので、綺麗なイラストには自然に好感を覚える。でもその中身が、自分と不完全さゆえに平等な存在だと幻想している他人だと気づくと、単純に人気者への嫉妬とは片づけられたくない複雑な感情を覚えてしまう。
まだ自分が面白い、本来人に愛されるべき人間であるという自己認知をやめられていないのだ。
おれの偏見を随分長々と書いてしまった。
本筋に戻そう、Vtuberになっていた同級生の話に。
汚濁はまだまだ尽きないが。
正直、教えてもらった時点では彼女はあまり数字を持っている活動者ではないように思えた。
彼女は事務所には所属せず、個人勢として活動しているVtuberだった。
アーカイブの再生回数は1000に届かないことがほとんど。いや冷静に考えればそれで充分すごい。
そんな再生回数おれじゃ絶対取れないのに、自分ならもっと取れるはずだという捨てられない思い上がりが首をもたげた。
それはあるいは対抗心なのかもしれない。同じ高校の同じ教室で1年間を共に過ごした同級生の現在への。
まあこれだけでは専業として食ってはいけないだろうと、勿論口にはしなかったが、自然とそんなことを考えていた。じゃあいつか活動をやめるんじゃないか。
友人と解散して家に帰ってから彼女のチャンネルに上がっているライブアーカイブや歌ってみた動画をいくつか見た。
(声変わってないなー)とか(懐かしいな)と感じたのはきっと、有名人のオーラとでもいうべきものを未だ感じないことへの安心感の裏返しだった。
それでしばらくは彼女のことを忘れていた。
今日までは。
今日は雨だった。
それは言い訳にならないだろうか?
昼頃に起きてから寝転がってとくに見たくもないのに動画サイトを巡回していた。
するとぱっと目に彼女のVtuberのイラストが流れてきた。
そのサムネイルは彼女のチャンネルのものではなかった。
おれもよく見るある有名配信者とのコラボ企画に彼女は出演していたのだ。
愕然とした、ぱっとしない地方高校の同級生が数十万人規模のチャンネルに出演しているなんて。
あれ以来一度も見なかった彼女のチャンネルを今度は入念にチェックした。
それは粗探しだったのか?
数万人に登録者が伸びている割にはコメント数が少ないことにケチをつけたかったのか?
コラボをしても再生回数がそれほど変わっていないことに一過性のものさと安心したかったのか?
雨に負けないくらいの大したことないやる気が出て、というより焦燥感だけど、こうやっておれは今下手糞な文章を書いている。
随分と差がついた、対等に話していたつもりのクラスメイトだったのに。
底辺の物書きと登録者数万人のVtuber.
高校の頃、結構話題は合ったし、向こうも比較的男子の中では自分に話しかけてくれた。
ほんとうに尊敬できる人だと今でも変わらず自分では認められる。自分自身で手加減して自己嫌悪するぶんには大丈夫だ。
ワーカーホリックを自称されるのは、本当なんだろうけど、鼻についたよ。嘘だよ、鼻につくは明らかに言いすぎている。その半分くらいだ。
負けたくない。
a
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?