ナンセンスの反復

要件を伝える際にダメ出しから始まる人が職場にいる。
年下の相手に対して、精神論に還元する責め方、退職等を迫る発言、威圧的な能力批判、たまに混ざる罵倒語、一方的な主張、雑談の中で行き交う前任者の悪口など。
「チーム内のフォロー」と名付けるべき手助けを「あなたたちの尻拭い」という言い方をし、「迷惑をかけるな」と言われたこともある。
今まで生きてきて、目の前の特定の人に対してイライラを覚えることがなかった私は戸惑った。誰かに対しここまで怒りに近い悔しさといたたまれなさを感じられるんだ。世の中にはこんな人がいるんだなと。
その人が在宅の時はもっとひどかった。電話越しだと対面していないから思いのよらぬ言葉を浴びせられる。歯止めが効かないため、録音をして労働局へ訴えようと思ったこともあるが、それを準備する段取りが辛いし、事を大きくするのも嫌なのでやめた。

この職場にきて一年半以上が経ち、そのひとは今も同じチームの一員として働いている。そのあいだ新しいメンバーが入れ替わり、雰囲気や業務内容が変わってきたうえに直接関わる機会が減っているため、適度に距離を取った関係を保っている。以前に比べるとだいぶ環境は改善した。その人とできるだけ業務が被らないように周りや上司が手を施してくれたのが一番大きい。

このような状況だったから、職場の他の人たちは自分に対して優しい言葉をかけてくれた。「よくへこたれずに頑張ったね」「大変なときは逃げてくださいね」「辞めずに耐えられるのはすごい」などと尊敬されると私は「あの人の言葉は聞き流してますから」「もう慣れましたよ」と答える。しかし本当はどれほど悔しい思いをしてここまできたのだろう。

今となってはその人はチーム内で「クセの強い人」「言葉遣いが粗いひと」として認識されていると思う。同僚のみならず上司にとっても、その人と一緒に仕事するときの大変さは全員知っているので、あまり仕事を割り与えられていない。だったら早くクビにすればいいと思うけど、契約上簡単にはできないようだ。
問題視しない程度に状況は解消しつつある。とはいえ、どんな場面でもその人の味方にはなれないと拒否する自分の心境は変わらない。もしその人が言動を改め、打って変わるように優しくなったとしても、頭では優しさを受け止めようとしても、傷ついた心がそれに抵抗する。環境改善したんだから昔のことはいいでしょう、と受け止められるとすれば、それは寛容な大人ではなくただの鈍感なひと。直接会話をするだけで記憶が蘇ってくるのはどうしようもない。必然的に相手より自分の方が過去の言動をひとつひとつ鮮明に覚えているものだから。

当時の心構えは、千葉雅也の『勉強の哲学』に出てくる実践方法と似ていて、これは誤魔化しであり効果的な対策でもありうるのだが、苦しい状況を単純化せず、人間観察の立場で両義性や複雑性を重視するように心がけることであった。オリジナルな小説世界を立ち上げ、その中の登場人物の一人として存在させる。相手の性格をひとつのキャラクターの特徴として吸収し、出来るだけ視点を変えてその人の仕事以外の面(誰かにとっては、父親であり、夫であり、子供であり、私が知っているのはほんの一部にすぎない)を見つめようと努めた。その人は自分の子供や食べ物や趣味の話になれば愉快に笑いながら話しかけてくるような人であるから、印象的な台詞をそのまま自分の日記に残したり、ふるまいや出来事を具体的に書いたりして、嫌なことがあるたび多角的な視点から人物像にかたどる作業をすることで自分を宥めていた。あとになって気づいたのである。これは文学的態度だと言えるのではないかと。

仕事をやめることだけが正解ではない。何もかも辞めて安逸遊惰な生活がしたいわけでも、できるわけでもないなら、自分の考え方を変えて働くしかない。
濁流にのまれる只中では必死に泳ぐことしかできないが、川の勢いが緩み始めると水面に浮かぶ木の枝を見つけることができるように、一息をつきて、ここはどこなのか、どうやってここまで来たのか、自分を振り返ることになった。
何か自分の言動に問題がなかったか、本当にこれが最善だったのかを考える。もっと自分のために、周りのために、相手のために、違った言動をしていれば、状況が変わっていたのだろうか。これまでの記述に対し誰かに被害妄想による作り話だと言われたら、そうかもしれないと言うだろう。真実は誰も知らない。

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