Fever’s End
呼吸が浅いひとは深呼吸の仕方を知らないだけだと、人それぞれ戦っている生きづらさは細分化させて着実に解決していくのがいいと教わった。くるしいくるしいと言うひとはできるだけ客観的・具体的に箇条書きにしてみるべきだと。
<例>
▪︎置かれた身分や役割によるもの
(学生時代の生活、親子の足枷、マイノリティの立場、受験期の苦難、仕事上の人間関係など)
▪︎金銭的な悩み(経済的負担、貧困など)
▪︎意志とは反する場面(別れ、死別、緊張、いじめ)、ないし言葉からの傷つき(誰かの/からの悪口、忠告、ネット上の意見、社会的流行、世論など)
▪︎身体的な受難(持病、過労、生理、過食や拒食など)
ざっくりとこれらを「悩み事」や「トラウマ」と呼び、ものによっては現代人の「ストレス」とも呼ばれ、乗り越えるべきものとして私たちは悶えくるしんでいる。衝動的な10代なら葛藤の末に鎮痛薬という名の自傷を試み、精神が円熟した頃合いには身体が先に持ち堪えられなくなる。だとすれば働き盛りのいまが一番心身したたかに向き合える時期かと思って調べると、確かにネットには”働き盛りとは「心身ともに健康であり責任ある仕事をしていると思われる年齢のこと」「もっとも盛んに仕事をしうる年輩」”と書いてあり、現在の自分がそのような戦闘態勢に入っていくのかと思うとなんとも言えぬ気持ちになった。
私は生活維持のためにバランスや節度というものをスローガンに掲げて過ごしている。自省と行動のバランス、責任ありきの自由、後悔しない程度の冒険、芸術への節度ある片想い、ささやかな逸脱、選択は自己責任。そんなものである。自分の真面目さはおそらくここからくる。一方で弱みと思っている部分はどこかと問われたら、それは「感情」という抽象的なものに関してだ。
現実という名の椅子が壊れても理想を抱きしめながら倒れる覚悟で身構えているのに、どうしても感情だけは自分の意志とは違って理解に及ばないところがある。
ある種の感傷性について、分かち合おうとする時にはもう泣いている。例えばそれはひとりの思いに閉ざされたとき。涙を流すことは心の自浄作用となるとされ、心がどれほど重く、時には暗いものであれ、苦しみを漠然としたままにしたほうが望ましい時がある。親切心から感情を無理に分かち合おうとして互いに傷つくより、何も言わず見守るか人知れず涙を流せばいい。
感情に度量衡は定められないし分かち合えるものではないが、生きる上で困難は誰にでも降りそそぐ。降り注ぐ雨に濡れながらに歩く姿を想像してみてほしい。そして降るのが雨ではなく先の尖った矢ならば、体と心にズキズキと刺さるだろう。そこで「どれくらい痛いですか?」「本当に痛いですか?」など問うてはいけないのは、下手をすれば生きることさえままならなくなることがあるから。人それぞれ矢を受け止める「心の標的」いわゆる「感受性」があり、悲しみにもっとも近い部分を私は「感傷性」と呼んでいる。フラジャイルな核心。ここが深く傷ついたひとは上手く生きることができない。
悲しみに命中してしまったひとのために私自身ができることは「心の的」のかたちを知ろうと努めること、そして心を守っている身体の脆さ(あるいは強さ)を推し測ることくらいである。そのためにはまず自分自身の感情線を描くことから始めないといけないと思う。
幼い頃から自分の感情について考え表現することに関心があった。年齢を重ねて気づいたのは、ひとはそのひと自身にしか感じ得ない感情をありのまま表現することはできなくて、ある程度決まったサイン(言葉)を使って表現し、他者と分かち合おうとすることである。つまり自分の知りうる限られた言葉でしか内なる感情を表せられない。ありきたりな表現に迎合してしまう。
言葉と想像力の出発点は、ひとりひとりの感受性が異なる事実から生まれたのだろう。文学が私のもとにやって来たのは、そう思い始めた十代の終わりから二十代前半の頃である。叶わなくても見続けたい夢があり、小説や詩という空間でしか伝えられないことがあると思った瞬間、自分のもとにそっと近づいた。どんなに社会で人権擁護や機会の平等が謳われても現実では価値のヒエラルキーが存在するように、与えられた言葉にも位階があり、むきだしの感傷性に少しでも寄り添うかたちで書かれた空間が言葉には存在する。ただ、その世界線に触れても感受性を持たないひとには伝わらない。しかるべき時にしかるべき機会をもって伝わるものだから、一生伝わらないひともいる。私にも到底知り得ないことばかりだが、なぜそのような言葉を探し求めるのかと問われれば、過去に何度も力をもらった経験があるし、年齢を重ねて分かるかもしれないから。
「言葉の限界がその人の世界の限界である」という真実に関してはまだ半信半疑であれど、肝に銘じたい一文であり、これからも純粋に慕いたい。そんなうわっつらの信念だけで、確固としない理想ばかり並べる無計画な自分に嫌気がさすことも多い。こないだは人を前にすると本音も本心も言えず、笑って誤魔化そうとする自分がいた。嫌気がさして、帰り道は小中高生の頃どっぷりハマっていたラッパー、初めて自分のお小遣いでアルバムを買った、思い入れのある曲を無性に聴きたくなった。久々に聴いても同じように沁みてくる。
無意識のうちに感情が蓄積されて、突然うまく処理できなくなりとめどなくあふれだす日には、「矢の洗礼」という歌詞を思い出す。そして雨模様の風景を連想する。また「心の的」という表現も印象的で、この歌詞を昔から何度も聴いては鳴り響いて、聴いては響いて、今回この文章を綴るに至った。晴れ模様の心がやってくるのを待ちながら。
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