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そこに愛はあるんか。ー触らぬ神に祟りなし、されどもー

※アイフルの宣伝ではありません。ふざけてません。

触らぬ神に祟りなし、さすれど沈黙もまた悪。自分でもよく分からんが、そんな気持ちで文章を書き始めた。

あることがネット上で炎上している。ある事象に対して批判の声を上げる人がいる。沈黙する人がいる。静かに反旗を上げる人がいる。

声を上げて批判するのではなく、静かに沈黙に近い何かで批判することはできないだろうか。

教室で横行するいじめがエスカレートするのは、それを見る者たちが沈黙するからである。ある場面において沈黙は、加害者と同じ罪を背負わされることがある。
もし教室でいじめられているのを目撃したあの時、声を上げることができていれば、違った結果があったのかもしれない。でも、声を上げることは難しい。次のいじめの対象が自分に変わるかもしれないからだ。集団の中で自分だけ孤立してしまう可能性があるからだ。

僕は小学4年生の時、仲が良いと思っていたグループからハブられた。原因は今でもわからない。当時ほぼ毎日遊んでいた友達から、鬼ごっこかサッカーをしているときに、いつもとは違う拒絶があったことを覚えている。小学校のグラウンドだった。ゴールが近い校舎側のグラウンドでのことだった。

僕はその次の日から、その友達のグループから孤立した。昨日まで楽しく遊んでいたのに、その日から僕はまるで存在しないかのように扱われた。時たま彼らの目線に入ると「こっちに来るな」
というメッセージを出した睨みが飛んでくる程度で、暴力を振るわれたわけではなかった。けれど、僕をボコボコにするのに暴力は必要なかった。無視されること、それだけで充分だった。

どれくらいそんな日が続いたのかあまり覚えていない。短かったような気がする。クラスの梶取くん、通称「かじ」が何故か僕と一緒に遊び始めたのだ。かじは、そのグループともそこそこ仲良くしていたのに、僕がポツンと座る机の向かいに来た。何をしたのか、どんな声をかけてきたのか僕は覚えていない。ただ、僕の前にかじが座って、僕という存在に向き合っていたことだけを覚えている。自由帳で遊んでいたっけ、何をしていたんだっけな。

それから梶取くんと無二の親友になった、という物語はない。学校終わりに特に遊ぶこともなく、5,6年生になる時には僕は別のグループと仲良くなり、中学生に上がってからはほとんど話さなくなった。というか、同じ中学校だっけ?と思うくらいに疎遠になった。

ネット上での炎上を見ながら、梶取くんのことを思い出した。あの時、彼が僕にしたことは、僕に寄り添う、ということだけれど、それと同時に、僕をハブにした人たちに対して「反旗」を翻していたのかもしれない。

炎上は、いじめとは違う。(同じ構造を持つ部分もあるが)
ある発信された事象に対して、
「その言い方まずくない?」
「それはダメでしょう」
と批判する人の声が膨張していくことが炎上である。批判には妥当性があるものも、そうでないものもある。
この膨張していく声は攻撃的になる傾向がある。それは必ずしも悪いことではない、鋭い批判は鋭利だからこそ批判が成立するとも思う。批判する時には批判する側に覚悟があり、鋭利な言葉を投げるのだろう。僕が嫌いなのは覚悟もなく、正義という棍棒を振り回して快感を得る人々のその軽薄さだ。

ネット、というバーチャル空間には身体性が欠落している。
教室で声を上げることは、ネット上で批判するのとは違う。そこには身体性があり、声を上げた自分が暴力にさらされるか孤立するリスクを孕んでいる。そのような構造を持ついじめが行われる教室という空間で、梶取くんが僕にとった行動はとても優しい。
それと同時にその行為は、「いじめを止めることにはならない」と批判される可能性を持っていることも理解はできる。でもそんなの知らねえよ。教室の外から飛ばされる批判は
、コロッセオで獣と見つめ合う剣士に罵詈雑言を飛ばす観客と本質的に変わらない。同じ場所に立った時に同じことを言えるかどうか、その想像力を持つことが倫理観と呼ぶべきものだろうと思う。

梶取くんが僕の前に座って、僕を見てくれたことだけが僕にとっては重要だった。彼が静かに反旗を翻し、僕に寄り添ったことが僕を救ってくれた。批判する時に重要なのはその批判によって誰が救われるのか、ではないだろうか。

今回の炎上の一件を見ていると、誰かを救うために覚悟を持って批判しているように感じられない。いや、もしかしたら違うのかもしれない。
批判されているのは記事の内容よりもそれを看過した体制側への批判が多かったように思う。とすれば、一つの大きなメディアに対して、体制を批判することは、これから生まれてくるコンテンツによって、傷つける人を救っていると言えそうだ。そこは否定できない。

僕は想像する。なぜこのような事態が発生してしまったのだろう。そこに働く人々は今何を思っているのだろう。話題に晒される記事に賞を与える時、どのような気持ちだったのだろう。
体制が大きくなっていく中で、仕事が忙しくなる。忙しさというのは時に人を無機質に扱うように作用する。大量に追われる作業の中で、一つ一つの原稿を心を安らかにチェックしながら読む、ということは難しいだろう。炎上した記事の文章はさらっと読んだだけでは、なぜここまで炎上するのか分からない。いくつかの記事と批判の内容を照らし合わせて「そういう見方もあるか」と思わせる程度であった、と個人的には感じた。
今回の炎上には、記事の内容以外の要素が絡んでいると考える方が妥当性が高いように思う。先日、同じメディアで炎上した一件などて、ユーザーに幾ばくかの不信感ができた。不信感がある人たちはより監視に目を厳しくすることになる。これからよりよい方向に向かって、変わっていくことを祈りながら。(もしかしたら、凋落させるチャンスを待っている人もいるのかもしれないけれど)

そのような文脈を加味すると、今回の記事の炎上の理由がさっきよりもはっきりしてくる。コンテンツを生産するメディアがどのような倫理観や態度で運営が行われているか、一つの不祥事のあとにどのように反省して行動を変えていくのか、それが一部の読者たちが凝視していたところなのだと思う。
万引きをしたことがある少年が店に来れば、店員はその少年の行動を他の客よりも注意深く見るのは必然であろう。もしその少年が店から出た後、ポイ捨てするのを見たら、その少年に二度と来てほしくないと思ってしまうことは、仕方のないことだと思う。

古い諺に「李下に冠を正さず、瓜田に沓を入れず」というものがある。
「すももの木の下で冠を直すと『すもも泥棒』に間違えられ、瓜の畑に踏み込むと『瓜泥棒』に間違えられるから、そういうことをしてはいけない」
という意味のものだ。

鋭い批判と、その鋭さにしどろもどろしながら擁護する2つのサイドの意見を読んで、
「なんだかどっちにも与することができないなぁ」
という気持ちがこれで幾分か晴れた。

僕が一番懸念していることは、一連の批判に対して運営側が疲弊してしまうことだ。反省するエネルギーがなくなるほど、疲弊してしまっては元の子もない。盗みを働く少年など過激な例え話を使ってしまったけれど、運営側の人たちが悪い人たちとは僕に思えない。運営に携わる人たちが完全に善良な人間である、と思うほど僕はナイーブな人間でもない。メディアが大きくなる中で大量の仕事を「こなさ」なければならなくなったことに大きな原因があると思う。だから彼らが悪くない、と言いたいわけでもない。とてつもないスピードで大きくなっていくメディアの運用の方法、もしくは運用におけるスタンスを間違えたことによって今回の一件があることは間違いないように思う。
一つ一つのコンテンツとどれだけ誠実に向き合えたのか。賞を与えることでユーザーたちの創作意欲や読者にどのような「感動」を届けたかったのか。もしくは社会に対してどのような対話の場を作りたかったのか。

1人のユーザーとして僕は何ができるのだろうか。いや、何をすべきなのだろうか。梶取くんなら一連の炎上を見て何を言うのだろうか。彼ならば、誰を救うために静かに反旗を挙げるのだろうか。そこに覚悟はあるのか。そこに愛はあるのか。

僕は炎上というものがあまり好きではない。そこで交わされる批判の鋭利さに納得する部分があったり、それを擁護する言葉の覚悟のなさにげんなりしたり、どうしたらいいか分からなくなるからだ。
この文章を書いていて感じたのは
「そこに愛はあるんか」
というアイフルのCMの言葉だったのが恥ずかしい。消費者金融のCMのフレーズに行き着くなんて、、。
批判に愛があるか、批判は対象をよりよいものにしていくためにあるとすれば、そこに「愛」があって然るべきではなかろうか。愛なんていつぶりに使った言葉だろう。とてつもない綺麗事に自分でも戸惑うけれど、なんかそこが大事なんじゃないかなぁ、と小さな声で呟きたくなったのです。

最後にタイトルのことなんですけども、何かを批判するのってむずい。
「触らぬ神に祟りなし」
という諺があるように、軽薄な批判は人の反感を買うだけで、ポジティブなものを生み出さない側面があるからだと思います。
じゃあ、沈黙してればいいのか、というとそれも違う。その葛藤に引き裂かれながら一連の炎上を眺めながら、こうした文章を書く覚悟を決めました。

僕の文章に愛と覚悟はあったでしょうか。


P.S
鋭い批判ウェルカムです。

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