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あしたの水曜日、下北の劇場でぼくは泣く。

あしたの水曜日、ぼくは下北の劇場で泣く。

場当たりがはじまった。僕が出る予定だった舞台の場当たりが、今始まった。

舞台監督のおおだちさんが、ふざけ混じりにみんなを笑わせながら舞台装置の説明をはじめる。前回よりも(今回の作品は再演)パワーアップした舞台セットにみんなも興奮している様子だ。(ちなみに「場当たり」は初めての劇場で完成された舞台セットの中で立ち位置や動線、はけ口などを確認していく作業のこと)

今回の舞台セットで僕が個人的に一番好きなのは、屋根の柱が舞台側に伸びている部分だ。

「みんなの捨てる家」というタイトルのこの作品は「家」が舞台で、つまり観客は家の中の様子を盗み見ている、ということになる。だからこそ、この屋根の柱、なんと言えばいいんだろうな、支柱と垂直に交差した屋根の柱、と言えば伝わるだろうか、その柱が観客側に突き出していて、本当に家の中を覗き見しているような感覚にさせるのだ。

演劇の舞台装置は映画とは違って、作品のためだけに作られたものである。基本的に映画では、撮影に映りこむ建物をわざわざ作ったりはしない。ほとんどの場合、脚本に合った場所を探してきて、そこで撮影を行う。

でも演劇では違う。全て舞台上に作り上げなければならないのだ。
正直、「みんなの捨てる家」の舞台となる家は、田舎に行けばすぐに見つかると思う。でもそれをあえて作品のために、舞台美術の人と一緒に作り上げて、作品の空気感を「舞台美術」にも落とし込んで行くのだ。

「めんどくさいよな、演劇は」
とよく思う。でも
「だからこそおもろいよな、演劇は」
なのである。

僕は舞台美術のミーティングの現場にいたわけではないし、舞台美術を担当した平山さんに直接聞いたわけでもないけれど、あの舞台セットの「柱」の案は異論なしで決まったと思う。知らんけど。

舞台の話が長くなってしまった。

僕はアナログスイッチという劇団の一人の俳優でござんす。その劇団の公演が、明日から幕を開ける。

僕が出るはずだった公演の、幕が上がる。

この文章はその舞台の宣伝、のためではない。
僕の復活の狼煙を上げる、そのための「宣言」だ。

どういうことか。

僕は、鬱(っぽく)になった。5月の半ばくらいから徐々に気力がなくなり、劇団からの連絡も全て無視するようになった。

3月末で2年間続けた塾の仕事を辞めて、役者の生活に専念しようとしていた矢先のコロナ到来。

5月、10月に予定したアナログスイッチの舞台も
「あ、なくなる」
と感じた僕はすぐに東京から実家の奈良に避難することを決めた。(友達の家に転がり込んでいたので、引っ越す手間がなかった。ちなみにその友達は彼女の家に転がり込んでいたので、僕は無料で快適な一人暮らしをしていた。)

実家に帰る、と簡単に言ったが、
おかん、お兄、じいちゃん、ばあちゃんに万が一、コロナをうつしては大変なことになるので、万一に備えて大阪のホテルで一週間隔離生活をしてから実家に戻った。

実家に戻ってから、だんだんと何か塞ぎ込むようになっていった。

「鬱っぽくなっててん」
と友達に話すと
「何がきっかけなん?」
とよく聞かれるのだけれど、何か大きなきっかけがあったわけではなくむしろ、これまでの人生の中に小さなきっかけがたくさんあり、その「きっかけ」が山になってある日雪崩のように崩れてきた、といった感じなのだ。例えばそのきっかけは
「あ、返信してないや」
ってくらい小さなものだったりする。

「鬱」というワードはなんかドロっとまとまりつくような嫌な質感があるし、うまくイメージできない人も多いと思うので、簡単に言おう。

僕は誰とも話すことができなくなった。
何もする気が起きなくなった。
シンプルでしょ?

3ヶ月間部屋にこもっりきりで、風呂にもほとんど入らず、ただひたすら生きているだけだった。呼吸をしているだけの、文字通り、「生きているだけ」だった。

劇団員から電話が来たり、LINEが来ても、僕はひたすら無視をし続けた。公演が中止になって大変な時も、クラウドファンディングのためにみんなが奔走している時も、僕は何もせず、ただ部屋にいるだけだった。

1ヶ月、2ヶ月と時間が過ぎる。LINEのアイコンの赤い数字がどんどん大きくなっていく。その数値は僕の罪悪感と比例する。

どうしてこんなことになってしまったのか。これから俺はどうするのか。
俺はどうしようもない人間だ。

何をしてもいない時間が僕を責めてくる。かといって元気になれるわけでもなく、僕はおかんが持ってくるご飯を食べたり食べなかったり、おばあちゃんが持ってくるご飯を食べたり食べなかったりして生きていた。あの時の俺は鶏小屋のニワトリよりもニワトリらしかったと思う。

ただただラッキーだったのは、そんな状態の僕に対して、家族から特に責められることもなく見守られていたことだった。一度だけ、ほとんど二階に来ないじいちゃんがやって来て、
「散歩行くけど一緒に行くか」
と言われたのに対して
「行かへん」
と素っ気なく返した。
じいちゃんは、とぼとぼと一階に帰っていった。あん時はごめんなじいちゃん。

別のある日、叔母から実家に電話があった。
「陽ちゃんから電話やで」
ばあちゃんが家の電話を持って部屋に来た。ほとんど実家に連絡をしない、東京の叔母からの電話に僕はドキッとした。

「あんたどうしたん?」
攻撃的な口調ではなく、心配そうな声で聞いてくる。

僕の公演のたびに足を運んでくれる叔母は、アナログスイッチの公演の時に
「次回公演の情報をメールで受け取りますか」
というアンケートにメールアドレスを記入していたのだろう。

そのアドレスに劇団の吉澤さんが
「連絡が取れなくて」
と相談したみたいだ。

「いや、ちょっと。元気ないねん」
僕は言葉を濁しながら切り出す。

叔母は責める様子もなく、たどたどしい僕の言葉を聞いていた。その優しさにほぐされたのか、僕は
「実は毎日『死』を考えながら寝ている」
と、今の状態を詳しく話した。

「自殺したい、とかではなく死んだら楽になる、と思うと安心できて寝れるんよ」

この時、あれを誰かに打ち明けられたこと、それを特に何も言わずに叔母が受け止めてくれたことも、ただただラッキーとしか言いようがない。

叔母は
「ちょっと休み。まぁ、劇団にはわたしから連絡しとくわ」
と言って電話を切った。

それからも僕は、相変わらず部屋からほとんど出ず、ひたすらYouTubeを見たりゲームをしたりして過ごした。

ゲームをしていると、いつの間にか1日が終わり、2日が終わり、風呂にほぼ入らないのに、風呂に入っているときさえも、ゲームをしていた。
「俺の人生終わったな」
と思いながらひたすらゲームクリアのための作業は、虚しいがやめられない。「kingdom」というゲームで、僕は迫りくるモンスター的な何かから王国を守っていた。全てのゲートを壊すとゲームクリアだ。

一週間ほどかけて、ゲームクリアした僕は何もやることがなくなった。
またYouTubeやNetflixで時間を潰そうとするも、

「お前どうすんねんこれから」
的な声が聞こえてきて、集中できない。



今思い返しても、どうやって他の時間を過ごしていたのかあまりうまく思い出せないが、いま生きている、ということは、どうにか虚無の時間を乗り越えたんだろう。

暗い話にどんどん突入してきてしまった。
そろそろ元気になった話をしよう。

これもまた、外からきっかけをもらった。
今回はおかんである。

僕がたまたま、洗い物をしてみようと下に降りた時、心配していたのだろう、母も降りてきて、キッチンに来た。

「くさっ!」
開口一番のおかんの一言である。

まぁたしかにほとんど風呂に入っていないので納得は納得だ。

思わぬところからの「におい」の評価に僕はシンプルに傷ついた。こんな状態でも傷つけるということは、
「俺もまだ人間か?」
と感じられ、誰と会う予定もないのに
「臭いのは嫌やなぁ」
と思った僕はその日から「毎日お風呂に入る」ということを目標にした。人類史上まれに見る、ハードルが低すぎる案件の目標。きりの悪い8月2日のことだった。

どんどん話を進めよう。
そうして、毎日お風呂に入るようになり、臭くなくなった僕は、フランス語を勉強したり、英語を勉強したり、ウクレレを練習したりなどして虚無の時間と闘うようになった。
そうすると不思議なもので、僕はあまり不安に囚われることがなくなり、以前ほど

「どうすんねんお前」
と言っていたあいつも、あまり顔を見せなくなった。

それでもみんなからの連絡に返信できず日々を過ごしていると、ばあちゃんが部屋にやってきて
「友達来たよ」
と驚いた声で僕に言う。僕も驚く。

僕はガバッと身体を起こし、家の外に出る。
高校の時の友人が、車で二人でお出迎えだ。車に乗り込むと、

「にっちゃんが生きてるか、死んでるかかけててん」
ギャンブル好きの友達が切り出す。

「勝ったわ」
とドヤ声で続け、僕に勝利を報告する。

他人の命を全力でもてあそんでくれるやんけ。

ラーメン屋に向かう道中の車内で、こんな友達を持てたことにひたすら感謝の気持ちだった。9月になる前の夜だった。

これまた、友人からきっかけを貰い僕は外部と連絡を取り始めた。そこから会社の同期、大学の後輩、映画を一緒に作っていた仲間たち。9月中にはほとんど連絡を返していった。だがしかし、である。それでも劇団には中々連絡できずにいた。

僕がかけた迷惑のことを思うと軽々に連絡できない。どういう言葉で返信すればいいのか分からない。謝罪は僕の自己満じゃないか、でもじゃあどうしたらいいんだ、ああああああわからーーーーん。となっていたら10月も半ばになろうとしていた。

そんな時、僕が企画し主演をつとめた映画が、ある映画祭の「ある視点部門」でノミネートされた。監督の難波青年からの吉報だった。168作品中の6作品に選ばれた。歓喜。

どうやら映画祭の情報公開は10月15日に始まるらしい。この宣伝をツイッターなどで発信するには、劇団に連絡せねばならない。
最後のひとおしはなんとも打算的なものになったけれど、どちらにせよ公演までに絶対連絡するぞ、とは思っていたので、
「いい締め切りができた」
と思って、劇団に連絡した。

10月16日のことだった。いや、ソーナンス。一日遅れてもうたんです。まだ映画祭の情報も発信できていない。まぁ、これが宣言だからね。

劇団に連絡する前に、僕に何があったのか、これからどうしたいのかを文章にした。劇団員、みんなへの手紙のつもりで。1万7千字にもなってしまった。多分、みんなちゃんと読んでへんと思う。知らんけど。

その手紙のような文章を、ほとんどフォロワーがいない僕のnoteのアカウントで記事にして、そのリンクと共に
「すみませんでした。元気になりました。」
と一言だけLINEのグループに送った。

5秒もせずに、吉澤さんから
「にっくん!!!!」
と、エクスクラメーションをいつもより多めにつけた返信がきた。そこから続く劇団からの怒涛の返信。

みんな僕を待ってくれていたことが伝わる返信だった。感動の瞬間である。みんなええやつすぎへんか?そんなええやつしてたら詐欺にあわへんか?

ちょうど稽古が終わり、各々帰路についていた時間帯で返信も早かったのだ。これまた運がいいな。

どうやら僕は運がいいみたいだ。世界一、と言ってしまうと逆にちっぽけに聞こえるけれど、どうやら本当に世界一運がよさそうだ。

僕は公演のお手伝いに行くことを伝え、夜行バスに乗り込んだ。18日の夜のことである。つまり、おとといの夜のことである。

昨日の朝、東京に到着し、僕は劇団員のみんなと再会した。劇場前で同期のこじまに会った時、前と全く変わらない笑い声で笑っていて、それがやけに耳に残っている。

搬入作業をしたり、舞台装置を作ったり、製作さんのお仕事を手伝ったりなどして、一日を過ごした。

下北沢のいくつもの劇場で繰り返されてきた何気ないこのことが、僕にとっては本当に大きな意味を持っている。いや、もちろん劇団にとっては一つの公演を打つことは、そりゃもう大ごとなんだけれども。

今朝、ついに舞台装置が完成し、場当たりを始めるために集まった俳優たちが、舞台に集合した。

羨ましい。

シンプルな嫉妬心が溢れてきた。運命のいたずらなのか、今回の再演は僕が初めてアナログスイッチで出演した作品だった。僕がやった役は、榊原さんという素敵な俳優さんがやることになった。
今日の昼、はじめましての挨拶を交わしただけでわかった。

「こいつおもろい」
どこから目線の評価か分からないけど、そう思ってしまったんだから仕方ない。

本当にありがとうございます。羨ましいけど、本当に感謝しています。感謝感激雨嵐なんです。

今、こうして文章を書いている瞬間も、みんなが劇場で場当たりを続けている。

場当たりが始まる時、僕はどうしていいか分からなくなって、その場に居たくなくて、主宰の佐藤さんに
「場当たり中、下北沢を散歩してきます。」
と告げて、町に繰り出し、こんな文章を書いている。
逃げた、という部分もあるのかもしれないけれど、どうせ見るなら明日の本番に全力のみんなを目撃したいのだ。

明日、僕が出るはずだった舞台の幕が上がる。

そう、明日、僕は下北の劇場で泣く。みんなが舞台に立っているのを見ながら泣きまくる。客席でわんわん泣いている男性が居たら、十中八九じゃなくて十中十十でそれは僕です。ハンカチでも渡してやってください。

最後に、僕の周りのみなさま、心配かけて本当にごめんなさいです。僕は元気になりました!「そんなことになってたん?」という人もたくさん居ると思いますが、また会いましょう!

またな!


P.S
気付いている人も多いと思いますが、この記事のタイトルは「今週末の日曜日、ユニクロで白T買って泣く」のタイトルからパクらせて貰いました。これまた運命のいたずらなのか、あの記事の島田さんは奈良に住んでいて、9月に会ってしまったのです。そういうこともあって、夜行バスに揺られながら、窓の外で一定間隔で流れていく外灯をぼーっと眺めている時、このタイトルを思いつきました。

あんな素敵な文章が書きたくて、復活宣言ついでに挑戦してみました。

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